雨の日の貝


 口はかたく閉じていろ。

 いつの間にか降りだした雨が巨大な屋根を叩いている。
 本来、喧騒にかき消されて聞こえないはずのその音が、今日は聞こえてしまうほどに、二人の、吉岡正文と山野井満のまわりは静まり返っていた。
「なんで黙ってた」
 その静寂を嫌うかのように、されどどこか静けさに気を使っているのかと思うほどの声量で言葉を先に紡いだのは、吉岡だった。
 隠しきれていない怒りの滲んだ声は、震えてこそいなかったが、雨声ばかりが響く場の雰囲気を一層緊張させるだけの力はあった。
 しかし問いかけられた山野井は、いつもの粛とした態度を崩さず、一言の返事も返さない。それどころかしばらくの間、唸り声にも似た声の余韻を楽しむかのように眼をつぶっていた。
「言ったところで、どうにかなったか?」
 漸く、山野井が口を開いた時、吉岡は既に一本の煙草をすっかり灰に変え、その残骸を草臥れた靴底でなぶってさえいた。
 珍しいことに、非常にゆったりと紡がれた山野井の言葉は、何かを確認するかのような、注意喚起するような、どっしりとした重たさを感じさせたが、内容自体はいつもの彼らしい嘲るような、誂うような、そういったものであった。
 今度は、吉岡が黙る番だった。
 答えに窮したというわけではないが、吉岡は何も言わなかった。時に沈黙こそがどんな冗長な言葉よりも優れていることを知っていたからだ。
「例えばお前だったら言ったか?」
 案の定、吉岡が何かを言う前に、山野井が口を開いた。
 吉岡の眼を、わずかに低い位置から覗く山野井の、今はまだ二つきりの瞳がくすんだ光の中で、一瞬だけきらりと光る。
「いや、言わねぇだろうな」
「ならばそういうことだ」
 吉岡の回答に、至極得意気に山野井は笑った。
 吉岡は、些か脳の足りないお前にだってわかるだろうと言いたげなその表情を、黙って見つめつつ、再び山野井の問いを考える。

 もし自分がFウィルスの感染者になったとして、それを同室の連中や一ツ兜、花畑に言うか否か……。
 そりゃまあ言わないだろう。言ってどうにかなるものではないのだ。それにそれだけですめばマシな話で、告白した後に殺されてはたまらない。
 黙って発症させてしまったほうが、自分勝手に死ねるのだ。どうせ死ぬにしても少しはまとも死に方ができる、かもしれない。
 しかしふとこうも思うのだ。
 もしかしたら自分は、目の前の、人を人とも思わない冷血漢にはうっかりこぼしてしまうかもしれないと。
 それは巨大な誘惑だ。可能性だ。自分では想像のつかない事象にも造形の深い男が、何か手立てを考えてくれるのではないかという安直で儚い望みを持たずにいられる自信はない。たとえその結果、無情な男の実験動物に身を落としてもだ。
 と、そこまで考えて、吉岡は無意識のうちに笑っていた。
 山野井に腹を割かれ、股をまさぐられ、歓喜の歌を聞かされ、あの気味の悪いぬめぬめとした笑顔を間近で見せられるなど、とんでもなく悪い冗談だ。
「バカげてやがるぜ、まったくよ」

 一事が万事、全く何もかもが馬鹿げている。
 なんでもない、とある一日が始まろうとしている時に、青い髪の新しい同室者がやってきた。塀の外では関わることもない人種に見えた。もしくは、路地裏でかち合えば、鴨がネギを背負ってなおかつカセットコンロと予備用のガスボンベまで用意しているような手合に見えた。だがそこは塀の中、冤罪を主張する新人がきただけの事、それでおしまいのはずだったのだ。
 しかし無情なほどあっけなく日常は崩壊した。

 人を食う化け物が突然やってきて大混乱!! でもあなたはヒーローです。さあ世界をすくいましょう!

 なんてシナリオだ。ゲームだったら発売翌日に買い取り拒否されるレベルだ。それほど使い古されたパニックホラーだ。だが残念なことに、これは現実なのだ。実に、実に馬鹿げた唾棄すべきクソみたいな現実だ。

 吉岡は想像する。
 山野井の身体に起きる数々の異変が、ついに見逃せなくなってしまう日のことを想像して、吉岡ははっきりと笑った。
 入浴の時間でしか見ることのなかった、日に弱い野菜のように細く白いの裸体。それがどうなっているのかを、明るい場所で見ることのないうちに、山野井は変貌を遂げてしまう可能性が高い。なんとも損した気分ではないか。ぼったくりもいいとこだ。

(ああチクショウ)


「殺してやるよ」


 強い言葉だった。
 直接的で紛れも無い暴力性を持った言葉を、吉岡はあえて選んで山野井へと投げた。ぴたりと、時間は再度止まったかのようだった。実際、どでんと横たわった静寂に、二人は雨がまだ止んでいないことを知った。
「俺が、お前を、殺してやるよ」
 二度目の圧迫感のある静けさを破ったのは、吉岡だった。
 いつか両眼合わせて六つに増えるかもしれない山野井の瞳に、じっくりと自分の姿を映しつつそう言った吉岡は、息を吐き、ポケットへと手を伸ばす。猛烈に煙草が吸いたくなっていたのだ。
 しかし煙草の箱に触れた吉岡の指はそれ以上動きはしなかった。それよりもまず、ほかにすることがあるような気がしていたからだった。
「礼は、言わんぞ」
 山野井の声は笑みを孕んでいた。
 意外にもこの男は冗談をいうことがあるのだ。いつだってあまり良くない場面で、あまり感心できない冗談ばかりではあったが、そんな軽口を吉岡は愛している。
「期待してねぇよ」
 山野井は眼鏡の向こうの、タレ目の割には怜悧な眼を、錯覚なのではないかと思うほど僅かにだけ細めた。刹那、吉岡の手は山野井の頬を捕らえた。
 あ、という音が漏れ出すより先、山野井の怒りに火がつく一歩手前、二人の唇は、散りゆく花びらが空中で触れ合う程度の軽さで接触した。

「残念だけどよ、口、閉じてねえとな」
「おい貴様……貴様はサル以下の単細胞生物か? ウィルスの感染条件には未だ不確定要素があるんだぞ」
「いやまあ平気だろ。軽い接触で感染すんなら、今頃俺らみんななかよく化け物だろーし、ボコールだって必死に前田に血飲ませようとしてたぐれぇじゃん、こんくらい楽勝だろ」
「俺のウィルスもそうとは限らないだろう」
「まぁなー……まあ、でも、だから、今はくち閉じてろよ」
 おい! とも、馬鹿が! とも、山野井はもう言わなかった。
 否、言えなかったのだ。

 唇を隠すほど強く口を結んだ山野井には明確な言葉を紡ぐことなどできなかった。そんなことより今は、口を閉ざして、「よくできました」と笑う唇を、ちょんっと啄むようにだけおちてきたそれを、受け止めることが先決だった。
「――煙草くさいキスは初めてだな」
「シャバの味だ。いいもんだろ?」
 フンと山野井は鼻を鳴らした。何も言えぬように、何も言わぬように、何をもこぼさぬように、口は閉じたままだった。
 同じく吉岡も、これ以上は必要ないと判断したのか、今度こそ遂に煙草を手に取ると、火をつけた。
 ゆるりと紫煙が立ち上る。独特の香りが漂う中、二人はもう、何も言わなかった。



習作(140413)