蝉がないた日


 申し訳なく思っているよと言った声のか細さと、泣いてしまいそうなほど小さな震動を、目を瞑ってやり過ごした。これ以上惨めになりたくなかった。なにより、これ以上惨めに思われたくなかった。
 けれどもその言葉は無視してなお、ひどく重苦しくのしかかった。

 志波は、氷上格という人間の素直さとわかりやすさが好きである。何もかもを真に受けて、子どものように鮮やかな感情を返す性格も、触れればすぐに熱を返す身体も、志波にとっては愛おしくてたまらないものである。だからこそ氷上と恋人同士などという酔狂な関係を築くにいたった。
 子どものように純粋であること、それは裏を返せば子どものように残酷であるということだ。その事実に志波が気がついたのは、その真っ直ぐで力強い氷上が紡いだ言葉に、自身の脳天を抉られた、この瞬間だった。

「野球部に入ったそうだね」

 どこできいたのか、しんとした裏庭で氷上は笑ってそう言った。夏本番ではないというのに、じりじりと暑いこんな日、氷上は白い肌にうっすらと汗をかく。やはり今日も、まるでベッドの中にいる時のように肌をしっとりと湿らせ、氷上は笑った。いや、笑みに見える奇妙な顔でそう言ったのだ。
 嘘をつけない表情筋で笑顔を作ろうとして盛大に失敗していることに気が付いていない氷上は、そのぎこちない笑顔と呼ぶにおぞましい表情のまま「すばらしいじゃないか!」と、わずかに声を高くする。
 よく空に響く声は、確かにいつも通りに空に鳴った。だがその音の言いようのない白々しさは、志波を苛立たせるに十分だった。いや、ただ白けているだけならばそれはそれでよかったのかもしれない。志波の精神をなによりもさかなでたのは、その響きが孕んだ哀しさだ。
 泣きそうな顔で、偽物の喜びを伝えられることの惨めなことと言ったらない。この世で一番情けない男だと突きつけられているようなものなのだ。恋人ひとり幸せにできない甲斐性なしだと、セミまでミンミンと笑っているではないか。
「誰から、聞いた」
「そうだな、誰からかといわれると……みんなからと答えるのが正しいだろうね。それほど噂になっているよ。みんな今年は甲子園も狙えるだろうな、んて……」
 それほどのニュースになっているとはどいつもこいつも暇人だと、志波が心底不愉快に思っていることに気がついたのか、氷上の声はぎこちなく止まった。それは、まるで電池切れで動かなくなったおもちゃのようだった。
(またこれだ)
 志波は奥歯を噛む。
 こんな風に氷上が、機嫌を伺うように言葉を止めるのは何も初めてのことではなかった。自分たちが付き合い始めるずっと前から、氷上は志波の突っ慳貪とも取れる態度にしばしば言葉を濁し、慰めるように笑った。志波はそんな氷上が憎らしかった。こと、思いを通じ合わせてからはなおさらだ。
 怖いと思うならば、なぜ自分の告白を受けたのか。
 腕の中で震えるくらいならば、なぜ拒絶しないのか。
 時折、志波は思う。自分たちの間にあるものは愛だの恋だのというものではなく、ただ滑稽な、己を満たすためだけの利己的な欲望なのではないかと。
 自身の歳相応な欲を、志波は理解している。男子高校生らしい青臭い性欲にとらわれていることを、志波はわかってはいる。だからこそ、なるべく暴走しないように務めているのだ。だが氷上は理解しているのだろうか。彼のお優しい優等生ぶった正義感などというものは、性欲と同じくらい程度の低い欲望の一つだということを。
 志波の苛立ちは限界を超える手前までせり上がっていた。事実、志波は、自分の中で細い糸がぷちぷちと切れていく感覚を覚えていた。しかしその悲鳴は、氷上の白い顔に浮かんだ二度目の稚拙な笑顔によって止められた。
 月よりも透明に白んだ顔に、すっきりとおさまった赤い唇が笑っていた。そして同時に、月と同じ色味に輝く瞳は涙ぐんでいた。
 志波は思わずそれに目を奪われた。だから止められなかった。薄くもみずみずしい口唇が、ゆっくりと開くことを。そこから呪詛にも似た言葉が溢れることを。
「僕は何も知らなかったんだね」
 哀しみよりももっと無気力な音で紡がれた声は、まるで死ぬ間際のそれだった。
 たまらず、夏に焦げた志波の両腕は、病弱そうにもみえる身体を抱きしめていた。氷上が哀れだったからではない。その顔を見ていたくなかったからだ。
 氷上格という男は、きつい物言いをすることはあれど本質的にはやさしい男だ。おそらく今だって、その言葉の裏には別の意味などないのだろう。ただ現実におきたことをぽろりと漏らしたそれだけのことだろう。だが、不健康なその顔と言葉が揃った今、氷上のなんでもない一言は鋭い刃となって志波の胸を貫いた。

 隠していたわけではないが、ずっと言い淀んでいた。氷上が真実を知っているのかどうか、それさえ聞けぬままだった。
 わかっている。志波は理解している。なぜ己が己自身の言葉で氷上に真実を告げられなかったか、その理由などわかっている。
 すべては些細な虚栄心のせいだった。同情されることを恐れていた。心のどこかで、正義感の強い潔癖な生徒会長殿が呆れるのではないかとも思っていた。そして何よりも憐れまれ、慰められるのが悔しかった。

 きつく抱いた腕の中、氷上は一切の抵抗をしなかった。けれども普段のようにおずおずと背に手を回してもこなかった。まるで何かが抜け落ちてしまったかのような身体はあまりにひそやかだ。
「氷上」
「僕は君のことを知らなさすぎたね……」
「氷上ッ」
 ぽそりと落とされた呟きには吐息が混じり、ひどく色めいていたが同時にそれは、一滴の水も知らぬほどに乾いていた。
 堅苦しい性格から誤解されているが、氷上の感情は非常に豊かである。だがいまはそんなものは砂漠に突如現れたオアシス、それの白昼夢にすぎないのではないかと感じるほど、氷上の声は色を持っていなかった。
 抱きしめた身体を離すように、肩に手を置いて志波は自分の腕から氷上を解放する。自然と向き合う顔、かち合う瞳に、志波は体中の毛を逆立てた。
 なんなのだこれは。
 この澱みきった沼のようなこれは、一体、何だというのだ。
 太陽のようにきらきらと輝いていたはずの瞳が、崇高な金色が、いまはひどく淀んでうつろだった。少なくとも志波にはそう見えた。
「申し訳なく思っているよ」
 絡み合った視線などまるで気にとめないように、そもそもそれを理解していないかのように、氷上はそう言って人形のように不気味な笑みを描く。
「……悪かった」
「何がだい?」

 何をどう罵られても構わないと覚悟を決めた志波の謝罪は、氷上の無垢な瞳と、まるで口からではなくその瞳が放ったかのように単純な言葉に迎撃された。だが志波はもう迷わなかった。お前に言わなくて悪かった、と低く呟き、そして再度氷上を掻き抱いた。
「し、志波くん」
「すまん……オレは、お前にバカなやつだと、思われたくなかった」
「志波くん?」
「お前が、オレを怖がってんのは、知ってる。荒っぽいの、嫌なんだろ? ……だから、言わなかった」
 言えなかった。言わなかった。知られたくなかった。だがもう遅い。
 同じことの繰り返しに飽きた連中は、どれほど醜いゴシップにも飛びつくものだ。志波が求めようが求めまいが関係なく、飛び入り入部の顛末と、志波と野球の関係は学校中が知るところになっているはずだ。そしてそれは、どこの誰ともわからぬやつから話をきいたという氷上の耳にも入っていて当然なのだ。
「……暴力はいけないことだ」
 ぽつりと、つぶやかれた一言は生気のない声色とは対照的に、暴力的な力強さをもって志波の精神を抉った。
 品行方正が服を着て歩いている文人的な正義感の氷上にとって、やはり暴力は心地良ものであるわけがない。どんな理由があろうが、氷上は暴力を許さないだろう。
 ここまでか、と志波はじれったい速度で進んだ恋愛の終わりを予期した。

 効率的なトレーニング理論の実証という名目で始まった二人の友情が、いつしか熟れた関係になっていた。恋である愛であるを語らない志波は、欲望のままに氷上を抱きしめて、氷上はまごつきながらも不器用にそれに答え、二人の関係は始まった。
 ずっと握りしめたいと思っていた、白い魚のような氷上の手を初めて握った日のことを志波はよく覚えている。その手はまるで本物の魚のようにひんやりとしていた。だが握れば握るほどに熱くなった。それを皮切りに、志波は触れたいと思っていた場所すべてに手を伸ばすようになった。
 細い首筋に触れた。
 金彩を隠す目蓋を撫でた。
 草原のように風に揺れる髪を梳いた。
 高級な果実のように光る唇を舐めた。
 無駄な肉もなければ筋肉もない腹を掠った。
 満たされれば満たさた分だけ更に勢いを増す欲を、子どもじみた接触で解消した日々も、今日でおしまいだ。
 志波はそう確信していた。

「でも」
 ぽそりと氷上の声は志波の腕の中で揺れる。
「だからと言って」
 ぽすんと氷上の頭が志波の肩口に落とされる。
「それだけのことで」
 ぎちりと氷上の腕で志波の身体が締め付けられる。
「君のことを嫌いになれるわけがないじゃないか……」

 蝉の声が世界をわらんばかりに響いている中で、氷上の羞恥に震える声はあまりに細すぎた。だが、志波は、志波の耳は、その透明な声をはっきりと聞いた。
「たとえ君が僕に何を隠していようとも、それがどれだけひどいものでも……たとえ君を嫌いになれれば楽だとわかっていても、僕は、僕はね――」
 木々に止まった蝉が一斉に鳴き出した気がした。気のせいだろうが、本当にそんな気がして志波は氷上の身体を捩じ切らんばかりに抱き直す。こうでもしなければ、この蝉の鳴き声が氷上の言葉を、そして氷上自身を、どこか途方も無い場所へと連れて行ってしまうように思われたからだ。
「――君のことを好きでいる」
 恐れていたものも馬鹿らしさに志波は笑いたくなっていた。
 ああ、身体が熱い。この夏の馬鹿らしい暑さなどとるに足らないほどひたすらな熱がここにはある。この身体の間にあるのだ。
「オレもだ」
 志波の精一杯の言葉は、まったくもって格好の付かないものだった。だが、氷上は喜びにそっと息を吐き、真っ赤な顔をごまかすように、上気した頬を志波の首筋に擦り付けた。そしてそれから緩慢なほどゆっくりと、言った。
「ねえ志波くん……君のことが、もっと知りたい」
 今度こそ本当に夏の音にさらわれてしまうほどの声が志波の鼓膜を揺らしたか否か。それを知るのは、二人の少年だけである。



068:蝉の死骸より(140421)