To the one I...


 呼吸をしているのだと思うより先に、人は呼吸をしている。

 夜行妃古壱は、毛の長いカーペットに音を吸わせながら踊る男を見ていた。
 比古壱にとって、普段この場所は自身が眠りにつく場所の次に、穏やかな心持ちでいられる部屋である。ほのかに漂うコーヒーの薫りは独特の甘みをもって鼻腔をくすぐり、昼であれば耳を澄ますことによって店に訪れる人々の声がぽつぽつと雨だれのように鼓膜を揺らす。そして夜は、奇妙なほど、それはこの店の名前に相応しいほど奇妙なほどの静寂がある、はずなのだ。そう、本来であれば。
「零號、少し休まれては?」
 妃古壱がこの提案を、なぜか一人で空気相手に好き勝手に踊る男、切間撻器零號立会人に投げかけたのは、実のところ三度目である。言いかればこの、先の二度とすっかり同じ言葉は最後通告でもあった。

 撻器が、ここ、百鬼夜行支配人室にやってきたのは例によって例のごとく閉店後の事だった。静まり返った店内で、妃古壱が習慣としている修行兼本日の〆の一杯を入れ終わり、その上それを胃袋に落とし終わった後に支配人室へと戻り、雑務をこなし、そろそろ自宅へ戻ろうとした矢先だった。
 突如支配人室に現れた男は、面を食らった妃古壱にすたすたと近づき、わざわざ耳元へ唇を寄せ「疲れてるようだな、妃古壱」とささやいてみせたのだ。
 何とも面妖な出来事であるが、撻器という男の存在自体が面妖そのものであるということを十分理解している妃古壱は、常日頃は支配人室にまでは入ってくることのない男の突然の登場にやや驚かされた。が、挑発じみた囁きに応じることはせず、ただ「なんでしょうか切間立会人」といつも通り、ひどく事務的な言葉を返した。だが、そこからは全くいつもと違ってしまった。
 撻器は、すましたというよりは冷たささえ感じる妃古壱の態度を気にもとめず、
たった一言
「妃古壱、俺と踊ってくれないか」
と言ったのだ。
 これには流石の妃古壱も言葉が出なかった。だから妃古壱は、恭しく礼をし、尻尾に似た髪をだらりと垂らしてみせる撻器をじっと見ていた。しかしすぐに、いつまでも黙っているわけにはいかないと、唾を喉に落とし、言葉を紡ごうとした。だがその時にはすでに、遅かったのだ。撻器は、その筋肉にものを言わせ、見事に空気と踊り始めていたのである。

 そして奇妙なことにこのダンスは今の今まで続いている。
 支配人室としては立派だがダンスホールにするには狭い室内で、いつものローラーシューズは使わず、否、正しくは使えず、踊る男。配置された家具を器用に回避しながら、ひとりでステップを踏む姿は不思議と滑稽ではない。
「冷たいことを言うなあ、お前は」
 苦笑いをひとつ、華麗なままの足取りで撻器は妃古壱はの脇に立つと、さっと指先で老いた頬を撫でて、行儀悪く机に腰をあずけた。
「私としてはつまみ出されないことに感謝して欲しいくらいですが」
 そんな撻器の様子を、妃古壱はちらり一瞬だけたしなめる目つきでにらみ、辛辣な言葉をため息と共に返す。
 相変わらず、何をしたいのか全くわからない撻器の言動ではあったが、妃古壱にとってそれは苛立ちの種ではない。むしろ妃古壱は好んでいるのだ。この奇怪な男の奇天烈な行動を。その子供じみた溌剌さを。
 ふと昔を振り返って勘定すれば、妃古壱はもうずいぶん長い時間を撻器と共にしている。凄まじい速度で変化する社会の波の中で、二人の関係もその都度、名を変えていったものだ。だが、始めて会った時から変わらないのは、無邪気な瞳の奥にひそむ本能的な暴虐性だ。熱を持ったその力だ。
 大昔の話になるが、初めて体を求められた時、妃古壱がすんなりと――もちろん肉体的にはスムーズにすむ話ではないにしろ、受け入れることができたのは、撻器の背負った肩書が「お屋形様」であったから、という理由だけではない。その眼球の一等奥まった場所にある、その不穏で猛々しい雄の色に惑わされたのだ。
「だが……まあ、安心しろ妃古壱。お前のその素っ気なさも、気に入っているところだからな」
 にやりと、撻器は笑った。人の悪そうな、いや人を小馬鹿にするような笑みではあったが、妃古壱はやはりなにも言わなかった。単なる嘲りに見える言葉の中、侮蔑にも感じる言葉の中、そんな極めて不愉快な言葉たちに包み隠さなければ、自分たちは、己が感情を表現することができないことを知っていたからである。
 好きだと言うのはひどく簡単で、それが故に踊り狂っていた男、切間撻器は乱暴にその言葉を使う。誰にでも、そう、強い男であれば誰にでも「お前のことが好きだぞ」と言ってのける。そんな塵芥よりも軽い“愛の言葉”を妃古壱は望まない。欲しいものはただ一つ、その瞳、それだけなのだ。
「相変わらずの悪趣味ですね」
「悪食なのはお前も一緒だろう」
「……そうかもしれませんね」
 何せあなたを求めてしまっているのだからと、続く言葉をわざと妃古壱は飲み込んで、からかうような視線に口唇だけで笑みを描いた。
「妃古壱」
 そう呼ぶ声は、笑いを堪えたせいなのかやや震えていた。そして妃古壱がその声の微妙な変化をいぶかしむより先、撻器は妃古壱の手を引いていた。
 強引に腕を引かれ、容赦のない力で体を起こされる。反射的に踏ん張った足のおかげでどうにか倒れることは避けられたが、妃古壱の体はすっかり起立し、その上ぴたりと撻器の胸に寄せられている。
「踊る距離だな」
「何をです?」
「チークダンスと洒落込もうじゃないか、なあ妃古壱」
 言葉の通り、二人の頬はたやすくくっつきあう距離にあった。頬を寄せ合う近さはただの同僚の距離ではない。かと言って上司と部下の距離ではない。これはまさしく、恋人の距離なのだ。
「あなたと、私で、ですか?」
「他に誰がいる。お前はまた俺をこの部屋と踊らせるつもりか? ぐはぁ……まったく、人間歳をとると卑屈で意地の悪くなることだなあ」
 もう一度「ぐはぁ」とお決まりの言葉がひとつ零れ落ちると同時、撻器の固い手がするりと腰に触れた、その感触と温度を妃古壱は服の上から感じた。
 手を取られ、導かれる。
 音楽など鳴っていない。そもそも音らしい音など、この部屋には存在することのほうが珍しいのだ。けれども妃古壱はもう抵抗しなかった。ただゆるやかに、まったく踊ることを知らない野暮な人間がするように身体を揺らしていた。撻器がそう誘う通りに、身を寄せあって、ゆるりゆるりと揺れる。
「なあ妃古壱……俺はときどき俺たちはひどく滑稽な生き物だと思う瞬間がある。破壊的な衝動を押し込めて、必死に怯えるいじめっ子のように、憐れだとも思う」
 毛の長い絨毯を踏む度に、何か小さな虫を踏みつけたような感触が靴底から伝わる。踏みつけて、足を上げ、再び踏みつけて……その動きを幾度も繰り返しながら、妃古壱は、撻器の声を聞いていた。言葉を受け取ると言うよりは、ただ低い音を、本当にぼんやりと聞いていた。
「だがな俺はお前に何を言えばいいか知らんし、お前からの言葉も求めちゃいない。愛しているだなんて言い合うことにどれほどの意味があるか、それを俺は知らん」
「どうしました突然」
 撻器の言葉は、妃古壱の返答通りあまりに突然で、同時にあまりにも今更だった。二人の関係をどう定義付ければいいのかなどということは、初めて共寝をした日の真夜中に考えておいてしかるべき問題で、その上そこで終わらせておいたはずである。少なくとも妃古壱はそう判断していた事柄だ。
 妃古壱は撻器を、撻器は妃古壱をそれほど長いあいだ知っている。撻器がお屋形様になる前のことを妃古壱が覚えているのであれば、撻器も妃古壱の髪が今ほど白くなる前の事を思い出すことができる。そういう関係なのだ。
「俺達は結局どこまで行っても俺たちでしかない。俺がお屋形様でいたときも、その前も、そして今も……なァ妃古壱、それでも俺はお前とこうして踊りたくて仕方がないあ……ぐはぁ、お前みたいなジジイとな」
 あなたももうすぐジジイでしょうに、と、妃古壱の舌が音を押し出すより早く、撻器の腕は一層強く妃古壱の腰を抱いていた。

 踊ろうじゃないか

 溌剌とした、実に青年らしい声を、妃古壱の脳はきいた。鼓膜を揺らすより先に、脳が揺れたのだ。息を吸おうと考えるより先に、酸素は肺に満ちている、そういうことなのだ。言葉より先に、思考より先に、それはある。だが、しかし、けれども――

 妃古壱はこの日初めて、自らの意志でステップを踏んだ。ダンスと呼ぶにはあまりに雄々しい足取りで、絨毯を掃いた。男に腰を押されるその刹那、自らも腕を動かして目の前で口の端を吊り上げて笑う男の手を引いた。
「――様、聞いてください。私は今の生活を不満に思ったことはありません。賭郎の立会人でいることも、執事喫茶のオーナーでいることも、その店に夜な夜な珍妙な客がしっぽを揺らして来ることも、私には素晴らしい日々の一コマです」
「そうか」
「けれども――いえ、ここからは、どうか聞かないでください」
「ああ」
 獣の唸り声のような返事を、妃古壱はしっかりと受け取り、その後、ゆっくりと、喉へと空気を誘った。
「私の命が本当にあなたのものであれば、」
 抉り取るような力で、妃古壱は己の酸素を溜めた肺に隠された心臓を撻器の身体へと押し付ける。
「それは本当の意味であなたと共にある、それだけのものであれば、どれだけ幸せだったでしょうね」
 どくんと、跳ねた。
 どちらかの、もしくは両人の臓器が、力強く跳ねあがり、ポンプが血液を体中へ巡らせる。体内に幹線道路を通したような騒々しさを、二人は感じていた。だがその中でも不思議と吐息に似た甘やかな声は、高く響いた。そう、嗄れた声が、忘れてくださいと、年寄りの戯言ですと、言う囁かな声は、何故だがひどくやかましく部屋に落ちた。
 妃古壱、と撻器はもう呼ばなかった。
 二人は、ただ、ただそこに佇んでいた。互いに何を求めるでなく、互いに何を与えるでなく、二人はただそこで身体を触れ合わせていた。

 静かな秋の夜のことである。



電波(130917)