夜行妃古壱に関する報告 その一


 報告一 夜行妃古壱は上品な男である。

 まず対象、夜行妃古壱(以下、夜行)が身につけているスーツ、これの仕立てが完璧である。スタンダードな形ではあるが、どこか洒落て見えるのは、ひとえにテーラーの腕がいいからであろう。
 と、いうことは……テーラーは対象、夜行の身体について熟知しているということだ。ロマンスグレーをぴっちりと撫で付けた隙のない男の身体の隅から隅までを誰よりも、それはおそらく本人よりも知っている人間がこの世界にいるということだ。
 後ろに手を組むことの多い夜行のことだ、袖ぐりはわずかにゆとりを持って作らせているのだろう。それでもシルエットが乱れないのだから、職人技とは実に素晴らしいものである。
 そして手首周りもさることながら、年甲斐もなく派手に動き回る夜行の活動量に耐えうる生地や仕立ても実に見事といえるだろう。
 さて、スーツもいいが、先に述べた髪型について一つ。
 あの古臭くも感じるオールバックが嫌味に感じないのは、同じ色をした口ひげとの絶妙なバランスのおかげだろう。その鉄壁を思わせる整った髪型は、滅多に激しい運動をしない表情筋と相まって若干のいかめしさを作り出しているが、ムスタッシュの効果かでミステリアスではあるがそれほどの威圧感を感じさせないのだ。それどころか、一見すると人のいい老爺のようにみえるのだからヒゲの力は偉大である。
 そして何よりこの夜行、異常に所作が美しいのだ。天から糸で吊られているかのようにぴんと伸びた背筋。指先まで神経の届いた動き。だからといってロボットのように固く不自然なわけはなく、さらりと流れるように腕を空間に滑らせてコーヒーを机に届ける様など、まるで教育を受けた本物の執事のようにも思える。
 物腰柔らかな声は、歳相応の落ち着きをもって、鼓膜を柔らかに刺激する。
「お待たせいたしました。スペシャルブレンドです」などと言われた時には、そのブレンド自分のためだけに入れられた、まさに特別なものだと錯覚しそうになるのだから、注意せねばならない。あれは悪魔のささやきである。


「お待たせいたしました。スペシャルブレンドです」
 すっと、まるで陶器の重さを感じさせないほど静かに置かれたコーヒーカップとソーサーに、撻器は特徴的な眉をぴくりと一度だけ動かした。それからちらりと、コーヒーを運んできたこの店のオーナー、夜行を見た。
 鉄面皮と評される表情がやや穏やかに見えるのは、夜行が満足しているからにほかならない。つまりこのコーヒーのできに、相当な自信があるようだった。
「注文してないぞ」
「何をおっしゃいますか。閉店した店の扉を開けてまでやってきた大切なお客様が、何をご所望かなど聞かずともわかりますよ。注文を受ける前に、お客様の求めるものがわかるのも、一流、でございますから」
 さあどうぞ、と言わんばかりに夜行はそう言って、少々表情をこわばらせた撻器の黒い瞳をじっと見つめた。
 撻器としては、目の前に置かれた、一見普通のコーヒーを飲むことはできれば避けたい道である。なにせ、まるでトリックなどないように見せかけて、その実とんでもなくトリッキー、それが夜行のコーヒーだ。
 まったくマジックにも通づる摩訶不思議さを持ったものだが、手品と異なるのは種も仕掛けも、おそらくは無いというところである。
「なら……、俺が今何を求めているかもわかるわけだ。さすが執事喫茶のオーナー様だ。執事の中の執事とでも言うのか? ぐはぁ……いいじゃないか、一を聞かずとも十を理解するその心がけ、俺は嫌いじゃないぞ」
 一種、この軽口は賭けであった。
 夜行のコーヒーに対する執着は、もはや病的なものなのである。不味いというあまたの評を全く機械的に無視することができるほどには、夜行は自身のコーヒーを愛しているのだ。客が、いかに正常な味覚、または五感を持ってコーヒーを摂取することを拒否しようがお構いなし、とにかく一口飲むまでは、冷めては淹れ冷めては淹れという作業を全く苦なくやり遂げるほどには、夜行は自身のコーヒーの味を疑っていないし、それで誰かの舌を湿らせることに熱意を燃やしている。
 “かつて多くの者が様々な手でこのコーヒーを回避しようとして呪われた”
 そんな噂がある。あくまでも噂であるが、真実味をおびすぎている。だから、撻器はコーヒーを飲みたくないという真意を悟られずにどうにか湯気のたつ上等なカップを遠ざけたくてしかたがないのだ。そのための言葉がどう機能するかを考え、撻器は柄にもなく緊張していた。
「零號立会人が、迷惑を顧みずに、全く不躾な時間に私のもとに訪れた理由ならば、今テーブルの上に示したと思いますが、あなたはそれ以上のものを求めていらっしゃる、と言うわけですか」
 くすりと夜行が笑った。否、笑ったように撻器には感じられた。
 木製の堂々としたカウンターの向こう側で、確かに、一級品のように上品な男の背中は笑っている。
「どうだ? わかるか? お前がこの空間でだけであれ、完璧な執事だというならば、わからんとは言えまいよ、なあ、妃古壱」
 もうひと押しだ、と判断し、撻器は矢継ぎ早に言葉を紡いだ。
 妃古壱という響きにか、夜行はくるりと、まるで踊るような軽やかさで正面を向く。細い目を悪戯小僧のように丸くしいる様子に、撻器は自身のうった手が間違っていないことを知った。

 冗談は冗談であって冗談ではなかった。
 撻器には目的があるのだ。立ち会い終了後、CLOSEDのプレートが揺れる扉を、こじ開けさせてまでここに来た目的は、もちろんコーヒーではない。ここにいる上品な男だ。わざとらしい思案顔で中空を見つめて、ふむ、と一つ呟き、これまた芝居がかった仕草で口ひげを整えてみせる夜行こそが撻器の目的だ。
「それは零號立会人が、本日の立会い業務をすっかり終えてからきたことにヒントがあります。違いますか?」
「さあ、どうだろうな」
「なるほど」
 そうですかと言うが早いか、夜行はコツコツと足音をたてて、自身の庭とも言えるカウンターの中を歩き始めた。
 それから二度、軽やかな足音と共に、狭くはないが決して広くない場所を往復した夜行が最終的に行き着いたのは、撻器のとなりの椅子である。
「これが正解でしょう、零號」
 得意気な言葉は、まるで吐息のように色めいて甘く響いた。
 夜行は長くしなやかな足を組みもせず、しかしだらしなく投げ出すこともなく、まるで椅子に座るために誂えられた人形のように、静かに腰をおろしている。
 撻器は一瞬、その完璧な風貌に息を呑んだ。なんとも嫌味なほど洒落た男ではないか、この夜行妃古壱という男は。
「零號?」
「妃古壱」
 正解であると言ってやらなかったためか、しびれを切らせた夜行からの問いかけにかぶさるように撻器は夜行を呼んだ。低い声色が、他には誰も居ない、そして暗い空間のほうが多い店内を彩る。
「はい」
 律儀な返事が夜行から返ったとき、撻器はもうひとつの目的、コーヒーを遠ざけることなどすっかり忘れ、その力のみなぎる太い指で夜行の頬を撫ぜる。
「妃古壱」
「なんですか、零號」
 零號と呼ぶ声の裏側に、別の呼び名が隠されている、その忍んだ音を撻器の耳は捕らえる。撻器は知っている。夜行がいつだって自分のことを「お屋形様」と空気を震わせずに呼ぶことを、知っているのだ。
 やや乾燥気味の肌は歳相応のものだが、撻器はこれが嫌いではない。するりするりと四本の指を頬に滑らせれば、いつの間にか微かな重みが指に先に預けられる。
 甘える猫のように、夜行が撻器を求める。鋼鉄のように冷たい男の頬のほのかなぬくもりは撻器の求めていたものだ。乾いているのは何も肌だけではない。果てしのない欲望は、砂漠のようなものなのだから。
 撻器の指は、今や頬だけにはとどまらなくなっていた。こめかみをつたい、完璧なオールバックに侵入している。
 パーフェクトな男をより隙のないものにしている髪型を、指で一房ずつほぐしていく。
 夜行は何も言わなかった。それどころか反応らしい反応もせず、されるがままになっている。けれどもひどく機嫌はよさそうだ。もしも夜行が猫ならば、ごろごろと喉を鳴らしているに違いない。
「ぐはぁ」
 猫になった夜行を想像した撻器が思わず息を漏らせば、夜行の瞳が「どうかしたか」と尋ねる代わりに揺れた。そのふるりしたと曖昧な眼球の振動に、撻器は無意識の内に笑みを返していた。
「零號」
 ――お屋形様
「なんでもない、だまって撫でられていろ、妃古壱」
 撻器がこの店に、コーヒーという罠が仕掛けられたこの店に懲りずに来てしまうのは、この時間のせいなのだ。弐號立会人と零號立会人ではない関係が、ここにはある。愛おしく甘く、少しだけ苦味のある時間だ。
「いやです」
 つんと拗ねたようなこえと共に、今度は夜行の指が撻器の頬に触れた。本の少しだけ、指先だけが皮膚にあたる。
「触れてもかまいませんか?」
「ぐはぁ、もう触れているじゃないか」
「そうでしたか?」
 ふふふ、と夜行は笑った。珍しいことだと金主ならば騒ぐだろうが、撻器にとってそれは珍しいことではない。夜行は実のところ静かによく笑う男なのだ、少なくとも撻器の前では。
「お疲れでしょう」
「そうだな」
 その会話はまるで撻器が今の撻器でなかったころの会話によく似ていた。お屋形様であったころ、夜行は他の誰よりも撻器のことを理解していた。少しの機微をも見落とさず、まるで母親のように敏感だとさえ思うほど、撻器のあらゆることを知る男だった。そしてそれは今もそうだ。零號立会人と弐號立会人という関係になった今でも、何も変わりはしない。
「よくお休みになられなくては」
「だからここに来たんだろう」
「またそのようなことを言って。年寄りをからかうものじゃありません」
「からかってなんかいないぞ、口説いているんだ」
「あなたという人は――」
 二人はまっすぐに視線をかち合わせた。じいっとただ相手を見る。瞳の中に結ばれた自分自身の像さえ無視して、二人はただ互いを見る。
 静寂の中で、焼ける音が響くほどに。
「妃古壱」
 そおっと撻器は夜行を呼んだ。夜行は音を立てずに撻器に答えた。そして二人は、自然に顔を近づけ、互いの唇を食むようにくちづけをする。
 激しさはなかった。ただ、甘咬みを繰り返し、時に唇に舌を這わせ、喋ることの代わりのように、ただ唇を交わしてゆく。
 そうして乾いたふたつの唇が、水分を分け合うようなやわらかで丁寧なくちづけは、始まった時と同じ静けさをもったままに終わった。
「俺という男は?」
 言葉の紡ぎ始めは撻器からだった。不自然というほどでは無いにしろ、尻切れトンボになった夜行の言葉が、気になっていたのだろう。
「――小賢しくなりましたね」
「ぐはぁ」
 甘やかな時が嘘のように、夜行はすっぱりと撻器に切れのいい言葉を投げ、さっと胸ポケットからコームを取り出すと、撻器の暴虐な指に嬲られた髪をいつも通りに撫で付ける。
(なんとも、まあ、これが妃古壱が妃古壱たるところだな)
 心内で「ぐはぁ」とひとつ、撻器がすっかりオーナーに戻った夜行に一抹の寂しさと安心感を覚えていれば、夜行はすでに椅子から立ち上がりカウンターの入り口へと向かっていた。そして、いざその入口へ差し掛かると、さすがのキレの良さで撻器に向かってお辞儀をひとつ。
「私としたことが大変失礼いたしました。コーヒーがすっかり冷めてしまいましたね。ただいま、淹れなおします」


 悪魔の囁きは夜にいよいよ本領を発揮する。いやそれよりなによりも、夜行妃古壱、吐き気がするほど上品な男である。



(130912)