キスをしてから言ってくれ


 加賀勝には不満がある。

 この世はクソだらけもしくはクソのような世界だというのが密かな持論であるマサルにとって、淡々と日々を綴る中でつのる不満は少なくはない。だがわざわざスピーカーを通してぶちまけたいと思う程でないものばかりであるのも事実である。つまるところ、いちゃもんじみた、または子供じみたワガママからくるものばかりではあるが、その中で一つ、どうしてもはっきり叫んでやりたいものがある。

 高田はキスをしない。

 これが目下、マサルにとって何よりも面白くないことだ。
 仕事の先輩であり、恋仲というには一般的にはふしだらすぎる関係を持つ、恋人とも愛人とも言えない相手、それがマサルにとっての高田である。もちろん「ふしだら」だの「破廉恥」だのとは外野が評することであって、マサル自身は高田との関係を「いい関係」だと思っている。風俗に行く金がないときや気分が乗らない時にその身体を貸してくれる非常に都合のいい存在でもある。しかも高田は絶対に妊娠しない。ついでに女のようにわけのわからないヒステリーを起こすこともしなければバカ高いブランド物を対価として求めることもしない。その上、普段は先輩として甘やかしてくれるのだから文句のつけようがないというものだ。
 身体の相性も、おそらく悪くはない――男相手の性行は後にも先にも高田としか行ったことがないので推測しかできないのである。他の男と寝ればこの評価は変わる可能性があるが、高田以外の男を抱こうと思ったことも誰かに抱かれようと思ったこともただの一度もない――ので実にまったく「いい関係」なのだ。しかしだからといって全てが上手く行っているというわけでもない。都合のいい楽な関係だからこそ手に入らないものもあるのだ。

「高田さん」

 突如、思いついたようにマサルは高田を呼んだが、返事はかえらなかった。そのかわりに部屋に響いたのは高田がインスタントの味噌汁をすする、ズズズという低い音だ。珍しいこともあるものだとマサルはその様子を静かに見つめる。普段ならばなぜ返事をしないのかと絡みに絡み、必死に「何?」という素っ気ない一言を引き出そうとしただろうが、今日は特に気にならなかった。返事など返ってこなくてもいいと、そう思える日もあるのだ。特にこうして高田が何かいつもと違うことをするときには特に。
 常日頃からよくコンビニ弁当を食べてはいる高田であるが、味噌汁をわざわざ買ってまで飲むことはしない。大体はビールと一緒に油っぽい惣菜を胃に流しこむだけで済ませてしまうが、時折こうして気まぐれに味噌汁を買ってはひどく億劫そうに食べるのだ。骨が浮き上がるほど肉感のない背を少しだけ丸めて、不器用に箸を操る。マサルにとって、そんな高田を見ることは密かな楽しみの一つだった。偶然そこに居合わせた幸せに、いつもより少し寛大になるほどには。
「それ、なんのみそ汁っすか?」
「なめこ」
「うっわ」
 簡潔すぎる答えに、よくそんなぬめぬめしたの飲めますねと言えば、高田は一瞬だけ眉を寄せて不服そうな顔をしてみせたが、別段何か反論をしようとは思わなかったようで、すぐに再び安っぽい紙のカップに口をつけた。
「俺、なめこ嫌いなんスよ」
「ふーん」
「なめこ好きな高田さんは好きっすけど」
「ふーん」
 とことん、無駄なことをしているという自覚はマサルにもあった。激情家というわけではないが、それなりに感情豊かな高田という男は、それとはうらはらに素っ気ない時には本当にとことんつれない男なのだ。たとえば債権者に言い寄られている時の高田など正にそれだ。冷徹さすら感じさせるほど涼やかな面持ちで、すべてを受け流すふりをして、さらり、と表面だけ撫でていく。むごい男だ。
 けれどもマサルは知っている。その氷のように透明で何もないように見えるそれが孕んだ熱を、マサルは知っていて同時に嫌悪していた。憎んでいるといってもいい。高田の二面性を。そのアンバランスさを。

 本当に、芯から、高田がひどい男なら話は簡単だった。

「高田さん、俺のこと好き?」
 どうせ答えないだろうとわかっていてあえて投げかけた問いではあったが、実際に無視されると多少なりとも腹は立つもので、マサルは小さく舌打ちを落とす。静かな、先程まで空間に生活感を与えていた咀嚼音が消えた静かな部屋に、マサルの子供じみた感情は憐れなほど大きく響いた。だからだったのか「チッ」という露骨な舌打ちに、高田はうっすらと笑った。
 本当に、まともに、高田が最低な男であればよかったのにと、マサルはその笑みに唇を噛む。声もなく、派手な動きもなく描かれる高田の笑みは、いつだってマサルが憧れ続けた、柔らかで温かい表情なのだ。けれどもまた一方で、それは柔軟だからこそ鉄のように固い。強固で微動だにしない壁だ。できる事ならばもう一度、いや一度と言わずに二度三度、答えが返ってくるまで「俺のこと好き?」と尋ねてやりたいというのに、完璧ではないが鉄壁の笑顔に、マサルの喉はカラカラに乾いて一つの音すら紡げなくなっていた。
 こんな時に高田がキスをしてくれたらどれほどいいだろう。ただ唇を合わせるだけでいい。昨日見たAVのように舌を食わんばかりに絡ませなくてもいい。ほんのちょっとだけ、ふっと皮膚と皮膚が掠ればそれでいい。それだけあれば、なんの答えも必要ない。
 それこそ今後高田が何一つ言葉を発してくれなくても我慢できてしまうかもしれないと、そんな馬鹿なことを思ってしまうほど、マサルは飢えている。高田からのくちづけを、求めている。
 プシュっという小気味良い音に、マサルは覚醒した。否、寝てはいなかったのだが、どこか遠くに行ってしまっていた意識を取り戻した。高田の顔にはもう何も浮かんでいなかった。いつもどおり、質素さすら感じさせるほどに整った無表情で二本目のビールのタブを起こした高田は、ここで初めて、おそらく今日この部屋に入ってから初めて真っ直ぐにマサルの瞳を捉えた。
「嫌いじゃないよ」
 ぽそりと落とされた言葉は、すぐにでも消えてしまいそうなほど小さかったが、マサルの耳は確かにその言葉を捕まえていた。ごくりと喉が鳴った。はたしてそれは、ビールを思い切り一口飲んだ高田のものだったのか、唾を飲み落としたマサルのものだったのか。そんなことはどうだってよかった。少なくとも今マサルの世界に必要な情報ではない。今、ここに、必要なのはただひとつ。

「ふっざけんなッ」

 大きな不満を一つと、そしてそれから――
 高田が正に間を抜かして与えた言葉を受け取ったマサルは、その刹那、くすぶり続けていた不満を口から押し出しつつ、その言葉を押し付けるようにして高田の唇に齧り付いていた。キスというには暴力的だが暴力だと言いきるには色を孕んだ口づけは、夜に彩られた部屋に湿った音を響かせ、マサルをさらに興奮させた。
「ふざけんなよ」
 噛み付いて、嬲って、また噛んで……そうして終わりにやはり憎まれ口を一つ落としたマサルは、最後に大きく息を吐き、事切れたかのように高田の肩に顔を埋めた。
 肉のない、骨っぽいそこは相変わらずゴツゴツとした岩山のように厳しくマサルの額を迎え入れる。そしてすぐにその肩が小さく震え始めるのを感じ、マサルはまた一言、悪態をつきたくなっていた。

(ああふざけんな。あんたからはキスの一つもしてくれやしないくせに)

 



男子の純情(121202)