瞳を見るには暗すぎる


 電話をしようと思ったのは朝だった。起き抜けに、そう思った。何をするよりも先、肌で感じた秋晴れに、電話をしなくてはならないと思った。
 実際に電話を、彼の番号が登録されたままのSIMカードをさした携帯電話を意志とともにとったのは昼だった。一時間ばかしの昼休み、誰が来るかも分からない研究室で、ここ数年ですっかり大きくなった携帯画面に触れた。アドレス帳を呼び出して、その名前を見た。「赤城一雪」、割り振ったカテゴリーは「友人」。怖気づいたわけではないが、なんとなく、本当に理由もなく、夜にしようと思い直した。
 そして今、すっかり日もくれた十九時、電話をかけている。心地良いと形容すると笑われるだろうか。ひどく落ち着いたコール音はすでに五度氷上の鼓膜をノックした。この電話がつながらないことは想定済みのことだ。不審な番号からであっても、自分の名前であっても、彼にとってこの電話は実に受け取るに困難なものだろう。ちなみに、おそらく後者であった場合の方が番号だけで表示される着信よりも厄介であることは想像に難くない。既婚者に昔の「恋人」からの入電。まるでドラマではないか。微塵もドラマチックではないだけで。

「はい……もしもし」
 狼狽というほどではないが、戸惑いをまとった固い声がスピーカー越しに耳をなでる感触に、一瞬吹き出しそうになる。なぜこの場面で笑いたくなってしまったかは分からないが、なぜか腹からこみ上げてきたのだから仕方ない。しかしここで笑ってしまっては終いだろう。どうにかそれを飲み込んで、笑みを浮かべてやり過ごし、その分だけ遅くなってしまった返答を返す。
「やあ、久しぶりだな。氷上だ」
 最初の挨拶は自分でも驚くほどスムーズに舌の上を滑っていった。上出来である。もしかしたら声が震えてひどく無様なところを彼にさらしてしまうかもしれないと思っていたが、いざことが起きてしまえばなんてことはなかった。
「…………」
 返される沈黙は重いものだった。電話越しですらわかってしまう困惑した様子の彼に、今度は泣きたくなる自分を、心底蔑んだ。どうしてこう、自分勝手に感情は走ってしまうんだろうか。
「今、大丈夫かな? 少しだけ時間をもらえると助かるんだが」
「……あ、ああ、」
「そうか。いや、結婚おめでとうって言おうと思ってね。遅くなってしまったけど、友人としてお祝いの言葉を述べたかったんだ。本当はメールでもすればよかったんだろうが、どうも僕はそういうことができないたちで、ずるずる今日まで来てしまったんだよ、あ、失礼、君は赤城くんだよな? 勘違いしてたら格好がつかないから、一応確認しておくけど」
 一度しゃべり始めれば、言葉が切れることはなかった。まるで斜面の上におかれたスキー板のように、すーっと音もなく滑っていく。余計な力と細工さえなければ、このまま何時間でもしゃべれてしまいそうだ。初心者スキーヤーのようにブレーキをかけることを忘れて滑り続ける。いやもしかしたら、怖いのだ。板の先を動かす、その少しの動作に対する恐怖心がスピードをもたらして、ほらもう止めることなどできない。
「君が結婚したということは、佐伯くんから聞いたんだ。あ、奥さんのほうだよ。メル友っていうのかな? 彼女は僕がアメリカにいるときにも随分律儀にメールをくれてね。まあ僕は忙しさをいいわけにほとんど返していなかったんだけど、彼女そういうこと気にしない人だから本当に助かったよ。でも、罪滅ぼしってわけじゃないけど、そんな気持ちで今は毎日――」
「ちょ、ちょっと待った!」
 本当は話すつもりのないことをべらべらと紡ぎ続ける口に止まれの号令をかけたは憔悴しかけた赤城の鋭い声だ。さすがにここまで一方的にまくし立てられれば誰でも不愉快になるものだろうと思う。
「氷上? 氷上なんだな?」
「ああ名乗ったとおり、氷上だよ。正真正銘、君の友人だった氷上格だ」
「そうか。いや……ごめんごめん少し驚いた。まさか氷上から電話が来るなんて思ってもいなかったから」
 彼は、すっかり冷静さを、それは自分がかつてあこがれたスマートでけれども冷たすぎない落ち着きを取り戻してようだった。本当に少しの間に、現状を把握し、受け入れる能力。彼の魅力の一つだ。きっと彼はいい弁護士なのだろうと、今更どうでもいいことを考えれば、自然と息が漏れた。そして余計な一言も、口の端からするりと、漏れ出す。
「僕も、電話をしようだなんて思ってもいなかったさ」
 失言だった。口から音になって出るより前、それは本当にコントロールすらできない直前に、まずい、と思ったが遅かった。もうすでに、言葉はマイクを通過してしまい、彼からは実に雄弁な無言が返されている。不思議なものだ。昔の彼ならば、ではなぜ電話をしてきたのかと間髪入れずに問うただろうに、彼はそうしなかった。ただお粗末な愛想笑いというよりもっとわざとらしく「ははは」と声を出して笑い、「手違いだったの?」と本当に軽やかな声で返してきたのだ。
 人間、年齢を重ねると丸くなるというが、赤城のこれもその兆候なのだろうか。だとしたら早すぎはしないだろうか。
「いや、はっきりとそういうわけではないけれど、でもついこの間まではそう思っていたことは確かだな。絶対に、君に連絡をすることなんてないって」
 過ちは一度犯してしまえば二度目も三度目も同じようなものだ。ならば、毒を食うのならば皿は舐るべきで、頭を踏んだならば尾まで余すことなく踏むべきだなどといっぱしの口をきいても悪くはない。失言を何度でも繰り返してしまえ。すべてをはき出してしまえ。そのために自分はこの時間まで電話をかけなかったのだ。帳が降りたその場所で、何もかもが見にくい場所でしか曝すことのできない感情があるのだから。
「それに何より、君が出ると思っていなかった」
「……正直なところを言えばさ――」
 ぷつりと赤城はそこで不自然に言葉を切った。その一瞬の間に、赤城は息を吸い、氷上は大きく吐息をもらす。
 じわりと手のひらが湿る。彼の手もこんな風に汗をかいているだろうか。今にも電話を滑り落としてしまいそうなほどに。
「――出るつもりなんてなかったんだけどね。あ、何で出たのかってのは聞かないでくれよ? 自分でもわからないんだから」
 痛ましいほど明るい声に、本当は彼が着信を無視したかったこと、無視しきればよかったと後悔していることを知り、自然とほほがつり上がる。笑ってしまう以外に、自分に何ができるだろうか。きっと他の手は、これよりも劣悪だ。
「ともあれ、僕は君にお祝いを告げられてよかった」
 彼は何も言わなかった。妙な沈黙が流れる。いや、先程からぶつ切りの会話だったのだから、感じるだけの電子的な振動にのった静けさなど今更なのだが、今回はいやに長い無音状態は、冬の曇り空のように灰色でうら寂しいものだ。温度のない世界が、彼と自分の間に横たわる。急に身体の奥が、その核の部分がキンと冷えた気がした。
「ひとつ、いいかな」
「なんだい?」
 横たわった静寂を断ち切ったのは赤城の方だった。思慮深い彼らしい物静かな声で、遠慮がちに、霧を手で柔らかになでつけるように赤城は尋ねた。
「なんでこの番号を知ってたのか、聞いてもいいかな」
 どんな答えを彼が求めているのか、それがはっきりと解りさえすれば、それを与えてやりたくなる不安定な音と言葉が、電波のせいか少しかすれて耳に届く。
「なんと答えればいいかな……なんてね、はは、簡単なことだよ、君が番号を変えていなかったからだ。僕の電話帳はね、変わっていないんだ」
 あのころから代わり映えしないのだとは、あえて言わなかった。「あのころ」といってしまえば、とたんに自分の情けないひがみっぽさが明らかになってしまうようで、とてもじゃないが言えなかったのだ。
 答えに納得したのかしないのか、赤城はただ「そう」とらしくない怠惰さでどこか艶っぽい囁きにも似た返事を返す。
「氷上」
「なんだい」
「僕は――」
 ひゅっと喉が鳴った。それが自分のものなのか、スピーカーの向こう側から聞こえたものなのか、はたまたその両方か、わからなかった。ただひとつ確信したのは、今から赤城が何かとてつもなく重要なことを言葉にして突きつけてくるであろうということ、それからその決意を、自分が手おるであろうということだけだ。
「――君に言わなくちゃいけないことがある。君に会って、会って話をしたい」
「随分、熱烈だな」
「そういう意味じゃ、」
「わかってる。はは、すまない。ただ言ってみただけだから安心してくれ。話をするために会いたいというだけだろう? 僕だって、幸せな君とどうこうなりたいと思うほど若くもないし、そんなことは一度たりとも夢想すらしたことがないさ」
「悪い」
「なにも」
 なにも悪いことなんてない。少なくとも君にこの件で非はない。僕の口が滑ってしまっただけだよとできるかぎり軽快な口調で伝えれば、電話先の雰囲気も穏やかなものへとかわる。
「僕は周りが思っているよりずっと暇人だから、いつでもかまわないよ。弁護士の仕事がどれほど忙しいものか詳しくはわからないけど、僕より時間の工面がつけやすいとは思わないから君の好きな日を指定してくれれば、僕が調整しよう。でも、赤城君、一つ約束してくれ。僕に会っても、決して謝らないと、そう約束してくれなければ僕は君に会えない。いや、会わないつもりだ」
「それは……厳しいね」
「そうかい?」
 意地が悪いことは自覚している。彼は謝罪のために会おうとしているのだ。その目的をなくして、どうして会えるというのか。だが、そんなものは欲しくはない。赤城から受け取りたいものは、ただの友情だ。おそらく昔に比べればいびつになっている、ひしゃげたそれだ。
「確約はできないが善処するというのではダメかな」
「駄目だと言ったら、どうする?」
「家か職場に押し掛けるかもしれない」
「ははは……はは、君はしばらく合わないうちにずいぶん乱暴になったんだな」
「君は良く口が回るようになったね」
「そうかい? 僕は昔からこんな風だったと思うけれど。そうでなければ、生徒会長なんて役にはならなかったと思うし、まあそうであったら君とも出会うことがなかっただろうな」
 黙ってしまうだろうと、こう言えば言葉を失うだろうという予想通り、彼は言葉につまった。赤信号で人の足がぴたりと止まるように、今までの動きを、止めた。
「かまわない」
「え?」
「約束はできなくてもかまわないよ。君に来訪されるのもやぶさかではないし、もしかしたらその方が僕にとっては都合がいいかもしれないけれど、ご祝儀がわりに君の案をのもう。ただ、赤城君、ぜひ最大限に善処してくれ」
 嫌みったらしく過去をほじくり返した詫びに譲歩してみせた自分を、心のなかでぼんやりと賞賛する。可能ならばこのまま焦らし続け、赤城を家へ呼び込みたかった。自分のテリトリーで決着がつけられればその方がずっと気持ち的には楽なのだ。
 ともあれ赤城はどうするつもりなのだろうか。謝罪ができないとあれば、今になって顔を合わせて得をする相手ではないだろうに。手紙には書けるが電話ではいえないことがあるように、電話では口にできても対面ではうまくいかないこともある。もちろんそれは自分にも当てはまる。電話を一本かけるにも、日が落ちるまでの時間を必要とした自分が、いざ赤城を前にして何をどうすればいいか思いつくとは思えない。
 だがもう遅すぎる。いつの間にか話はとんとん拍子に――推測するに赤城はできれば早く彼に不利なこの通話を終了させたかったために、滞りなく会話は流れていき、自身でも知らぬ間に氷上は通話を終えていた。

 手の中にずっしりと思い携帯電話を軽く握りしめる。すっかり体温で暖まったはずの金属部からなぜかひやりとした感触を受け、驚きのままにぐっと力を込めてみたところで、何も起きやしない。常の待ち受け画面に戻ったそれで先ほどまで通話をしていたことは確かだが、音のなくなった、ただの機会だけが残された手のひらに残ったのは虚無感だけだ。
「夜で正解だったな」
 昼のうちに電話をかけなくてよかったと、氷上は安堵の息とともに言葉を落とした。冗談ではない。もし昼間この電話がつながっていたら、ぷつりと切れた後に自分を襲う徒労感はこんなものではなかったはずだ。それにきっと、今は寒いだけの手のひらには空洞があいてしまったに違いない。空っぽな、黒い、夜ならば見えやしない、穴が。
 さて彼は、いつを選ぶだろうか。秋の日か、それとも秋雨が地面をぬらす日だろうか。いやもしかしたら……。
 ぱっと頭に浮かんだのは、通話を開始する前につけていたテレビの画面だ。氷上の好むコマーシャルのないチャンネルでは、小柄でいかにもその局らしい一見清楚な女性が天気図の前で解説していたそれ。
 近々この一帯をにも訪れるらしい台風。もし彼がその日を選んでくれたらばどうなるだろうか。
「まずは、赤城くんに惚れてしまうかもな」
 音にせずとも事足りるくだらない空想を、わざわざ空気にのせる。まるでふやけた言葉は軽い響きを持って、夜の部屋に響いた。

 



(121027)