路地裏


 酷く不機嫌そうな目に、俺は少し自惚れてもいいのだろうか。

 ぎゅっと掴まれて、くいっと僅かに引っ張られたので、体が後ろに少しだけ揺らいだ。
 どうやら俺の後ろを面倒そうに歩いていた社長の仕業らしい。首をできるだけ捻って後ろを見やると、いつもの調子と変わらない、感情を消しきった小さな目が大きなレンズ越しに覗いていた。
「何か――」
「気持ちよさそうだなって思ってな」
「はあ……」
 手を俺のフードから離さず、ファーを握ったり、時には撫で付けてみたりしている社長は怖いくらいにいつも通りの真顔を崩さなかった。気にすんな、と小さく付け足されたが、これを気にしないでいられるほど俺の神経は太くない。それくらい社長もわかっているだろう、というよりも社長が誰よりもわかっているだろうというのに、本当にこの人は人が悪い。
「気持ちいですか」
「うん」
 短い返事には、子どもっぽい真剣さが含まれていた。この人を年下だと思える数少ない瞬間だ。いつも圧倒的な力で人を支配していく闇に落ちた男が、今はまるで人間のようだった。
 うさぎでも思い出しているのかと思えば、またたまらなく愛おしくなって俺は自分が社長にどこまでも捕らわれていることを知る。
 好きだとか愛してるだとか、そういうことを言い合う仲ではないし、社長はもちろんのこと俺だってそんな気色の悪い言葉を信じて生きるには、もうあまりにこの世界に踏み込みすぎている。けれども俺は社長に捕らわれているのだ。それは一人の従業員としてではなく、一人の人間としてだ。無様だとも哀れだとも思うが、俺はそれでいいのだ。この淀んだ世界の中で、社長の圧倒的な芯を持った闇にどうして捕らわれずにいることができようか。その力から逃れることは到底無理なのだから、俺は足掻くことをしない。結局俺は、ここが好きなのだ。
「高田さんの趣味って、わけわかんないっすよね。ね、社長」
 背中を違和感に預けたまま、沈み始めていた思考を遮ったのは、マサルのまさに子どもらしい溌剌とした声だった。問いかけられた社長は、無言で首を捻る。肯定の意味でも否定の意味でもないその動きを、マサルがどう受けとったのかはわからないが、質問をしたことが嘘だったのではないかと思うほど何事もなかったように、マサルは言葉を続けていく。よく言えば元気いっぱいに、悪く言えばやかましく、俺の服のセンスを論じ続けているのだ。
「マサルは案外こだわり派だもんね」
「そこまででもないっすけど、高田さんが関心なさ過ぎなんすよ」
「だって、面倒じゃん。いろいろ考えるの」
 洋服に限ったことではない。いろいろと考えるのが面倒なのだ。だから俺は妄信的に何か強いものに引きつけられていくのかもしれないし、そうでないかもしれない。そんなことはどうだってよかった。
 ふと気がつけば、背中が妙にすっきりとしてしまったのでちらりと後ろを振り向くと、社長の手はポケットに戻されてしまっていた。そして、大きな眼鏡のその向こうの目は、煩わしそうにマサルを見ている。ただその目のまま、聞いているのか聞いていないのか判断が難しいほどふてぶてしい態度で、そこに存在している。どうもご機嫌が斜めになってきたらしい。気分屋というほどのものではないと思うが、職業柄なのかさてはもともとの性質からなのか、社長は感情の起伏が割合に激しい。といっても、ここでいきなり激怒することはないだろうが。それでも、なぜかあの不機嫌な目つきに俺は妙に不安になった。別に、怒られることには慣れているのだが、その怒りがマサルに向けられると思うとなんだか居た堪れないのだ。
 仕方なしに、極力興奮させないようにマサルの話に付き合い、気まぐれな言葉が社長へ向けて放たれないように、俺はばからしいほど必死になった。こうでもしなければ、すぐにでもマサルは社長の地雷を踏み抜いてしまう。踏み抜いて傷つけばそのときは平気な顔をしているが、後になって長すぎる上に支離滅裂な愚痴を青くみえるほど哀れな顔で吐くのだから、全くいやになる。
 マサルは大きな身振りで、興奮しながら自分のファッション論を高らかに演説しつづける。俺はぼんやりとした頭でそれを聞き取り、アルコールの巡る体に命令を下し、時折、感想を述べていた。
 急に、ぐっと体が後ろへよろめいた。俺はこんなになるまで飲んだだろうかと一瞬悩んだが、直ぐにそれが社長の手によって引き起こされたものだと理解した。背中に、いなくなってしまった違和感が舞い戻り、転びそうになった体を社長のもう一方の手が、酷く乱暴に支えている。今までに一度だけ体験したことのある、怒り狂い、それでも 冷静になろうと勤めている様子の手だった。
「今日は、ここで解散」
 白い街灯に、眼鏡が照らされていて、俺は社長の目を見ることができなかった。まるでマサルのように拗ねた声を出す社長の目が、俺はとてつもなく見たかったけれど、どうやらそれは、俺にだけは絶対に見えないように計算されているらしい。俺はそれが、自分でも気持ち悪いほど悔しくて悔しくて泣きそうになったので、すかさず気の抜けた笑みを浮かべてやりすごした。

 


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