お大事に


 この時期が嫌いだ。

 別に理由はないけれど気分が落ちるのだと言った声は届いただろうか。
 高田さんは何も答えず窓の外をぼんやりと眺めていた。すっと伸びた背中に、ああこの人もホストの端くれだったんだなあ、などと何の肥やしにもならぬことを思いながら膝の間に頭を埋め溜息をつくと、コンコンと窓を叩く音がした。
 単純に何が起こったのか気になって、埋めたばかりの重い頭を持ち上げると、高田さんが暗闇の映る窓をノックした動作のままに固まっていた。相変わらず行動の読めない人だなと思うが、そんなことを口にしたところで高田さんの悪癖が治るわけでもないので、黙って再び膝小僧の谷へ頭を差し入れる。
 こんな風に体育座りをする癖がついてしまったのはいつからだろうか。あのくそばばあが帰ってこない家で、俺はずっとこうして座っていた気がする。だれも帰ってこない暗い家で、俺は台所のカサカサ羽を鳴らす虫よりも静かに座っていたのだ。
「なんで?」
 人が思い出に――それは最悪な記憶ではあったが、そこにこびりついた微かな思い出に浸っているところに高田さんの声は遠慮なく割り込んだ。俺は顔を上げて、高田さんの背中を見る。その背中からのいつもと変わらぬ淡白な声に、俺は正直救われていた。この人は決して煩わしいほど熱くならず、淋しくなるほど冷たくならない。いつだっていつも同じ温度を俺にくれるのだ。
「いや、だから、別に何があったってわけじゃねーんすよ」
「あ、そっか」
 話を聞いてなかったのかと言ってやりたくもなったが、それもまた無意味なことだ。存外子供っぽいところのあるこの人は、疑問に思ったことはすぐに口に出してたずねてしまうタイプなのだから、前にどんな言葉が並べてあったところで通じない。不思議に思ったことがあれば一人で悶々とした後に、結局は「なんで」と尋ねる。みろ、まるでクソガキだ。
「でも意外だなー。すっごい花見とか好きそうなのにね、マサル」
「あー、まー花見くらいは行くっすけど、そーいうことしてても、なんつーか落ちるんすよ」
 そう説明すると、高田さんは「ああそう」とさも興味なさげに呟いて窓から離れ、面倒そうにブラインドを下げた。
 最後に桜を見た楽しい記憶を辿ろうとして、すぐにそんなものはないことに気づく。学校の式典などに母親は一度も姿を見せなかった。みんながきれいな服を着て笑っているとき、俺は薄汚いボロを着て、ただ土を蹴っていたのだ。その惨めな思い出の中でも一番に最悪なのは、何といっても中学の卒業式だ。一緒につるんでいた連中も、なんだかんだといいつつ高校へ進学を決めていた。そんな浮かれた空気が纏わりつく中で、俺はただ宙ぶらりんに吊るされたまま、 桜の木の下に立っていた。いっそあの時、俺はあの目障りな桜の木に首を括ってしまうべきだったのだ。
「寝るよー」
 間の抜けた声にはっと視界に光を取り戻すと、すっかり眠る準備を終えた高田さんがゆらゆらと揺れながら髪の毛を撫で付けていた。俺は慌てて返事をすると立ち上がり、上着を脱ぎ捨てる。既に高田さんはベッドに潜り込み、白い布団にもう僅かになってしまった金髪を隠していた。
 すっと隣に忍び込む。さて、と俺が毛布を引き上げると、高田さんはもぞもぞと芋虫のように体を震わせ、既に半分眠りに落ちたようなくぐもった声で、電気消して、と言った。まったく面倒だと思いつつも居候の身分を自覚して、俺はベッドから這い出る。
 そうして再びベッドまで戻ってきたときには、高田さんは眠っていた。どう考えても早すぎると思うが、高田さんは寝つきが異常にいい。俺は常々、どこかの漫画の主人公のように三秒で眠れるんじゃないかと疑っている。別に今日はもうベッドで何を話したいわけでもないし、おやすみと言われたいわけでもないが、なんとなく寒くなるから厄介なものだ。そしてその寒さはすぐに苛立ちに変わり、寝ている高田さんも構わず乱暴に布団に潜る。
 目を瞑り、もうすべてのことは忘れて寝てしまおうと思ったときだった。
「お花見行こうか、明日」
 眠っていたとばかり思っていた高田さんの声に、俺は急いで目を開いて隣で寝ている顔を見た。高田さんの瞳は瞼に隠され、いつもの寝息が平和そうに響いていたが、俺はばかみたいに単純な喜びが湧き上がってくるのを感じた。
「いいっすね」
 はしゃいだままの声で呟くと、俺の声が届いたのか、高田さんは狭いベッドでごろりと寝返りをうち顔を俺へと向けた。規則正しい寝息はいつの間にか消えていた。
「うん、おやすみ」
 はっきりと落とされた言葉だったというのに、それはまるで寝言のように聞こえた。というより本当のところは寝言ではないだろうか。そう思って薄暗い闇の中で高田さんの顔をもう一度覗き込めば、やはり目は硬く閉じられていて、おちょくるように、やはり俺が気がつかないうちにクソみたいに平和な寝息も復活していた。
 疑うことは簡単だ。もしかしたら誘いの言葉も寝言だったのではないかと考え始めれば、途端にそのように思えてきてしまう。真相を知るには高田さんをたたき起こし問い詰めるしかないが、できれば避けたい道だ。この人は怒ると怖い。いや違う。この人を怒らせて家から閉め出されるのが怖い。だからというわけではないが、俺は高田さんを起こそうとは思わなかった。だって俺は淋しくは思わなかったからだ。そんなことよりも「おやすみ」という何でもない言葉に、俺の冷え切った指先が温まっていく現実のほうが重大なことだからだ。それに、寝言かどうかなどということは、今聞かずともいいことだ。寝て起きて、明日の朝聞いてみればいいことだ。それでもし、寝言だったとしたならば、俺から花見に誘えばそれで万事オッケーではないか。
 明日の朝の問答と、明日の夜の桜を思い浮かべ、この吐き気がするほど最悪な時期に始めて刻まれる思い出を細かに夢想しながら、俺は口の中で「おやすみ」と呟き返し、目を瞑る。なるほど悪くもないではないか。

 


50-05(?,121015)