Hiding from THE rain


 自転車を好んで乗る人間にとって、雨の日はなかなかに過酷なものである。もちろん天候を肌で感じることができるというのは自転車の利点でもあるのだが、それでも土砂降りの日、特に雨合羽を忘れてしまった日に降る雨には悪態の一つつきたくなるのも当然だった。
 真夏の夕方に熱気を洗い流してくれるすがすがしい夕立のようなにわか雨が新緑をぬらす。花びらを落としてしまって久しい桜のやや深くなってきた緑に、天に向かってまっすぐに延びるケヤキの、透けるような緑に、雨は容赦なく降り続いている。近くではないがおそらく隣の市あたりからだろうか、ごろごろと雲の上から響くのは雷が拗ねている音だ。
 ざあざあと降る雨がコンクリートを叩きつけると、ダダダ、ダダダと響き、その合間に水たまりに着水した滴によるぴしゃぴしゃという合いの手。騒々しいようにも感じられる音と、見事なほどに力強い雨粒たちを、氷上格は薄暗い場所から眺めていた。
 雨の音は嫌いではない。むしろ好きな方である。ごちゃごちゃとした最近の音楽よりも自然の音を聞いている方が精神的にもいやされると思っている。思ってはいるが、氷上の腸はそろそろ煮えくりかえるだろうというほどに沸き立っていた。この雨にではない。自らが犯した失態にである。

 氷上格は自転車愛好者である。高校時代から可能であればどこへ行くにも自転車を使用してきた。といっても、世の成人男性平均値よりもずっと乏しい体力と運動能力の許す範囲でである。間違っても日本一周自転車の旅などというものを試みたことはない。けれども登下校や買い物、友人の家に遊びに行く際、という場合にはいつだって自転車を交通手段として選択したきた。今だってそうだ。職場である一流大学までは、毎日自転車を漕いでいる。晴れの日も曇りの日も雨の日も、かなり苦労して取得した運転免許と、恋人と話し合って購入した車には悪い気もするが、キーコキーコとペダルを踏む日々である。
 反射神経や運動神経といったものは人並み以下であっても、経験と理論の融合により氷上はそれなりに自分の自転車操縦技術に自信を持っていた。そして、自転車の交通ルールとマナーについても、人より詳しいと自負している。だからわかっているのだ。雨の日には雨合羽が必要だということくらい、誰にいわれずとも知っている。
 実際に、氷上は雨の日には上下しっかりと合羽を着用し、足下には長靴を装備。ついでにヘルメットは特別ツバの長いものをかぶる。このヘルメットを合羽のフードで覆い、ツバの先に固定すれば眼鏡であっても比較的快適に走行できるのだ。だがここまで徹底したところで、その荷物を忘れてしまっては意味がない。
 連日の雨で、荷台にくくりつけた予備用の道具一式を使ったのが運の尽きだったのだろうか。しっかりと、雨具というものはしっかりと手入れしなければ、その性能の寿命は短いものだからと雨に打たれた一着をきっちり乾燥させようとしたのがいけなかった。今頃二人分のの合羽とヘルメットが仲良く干されているだろうランドリースペースを想像し、氷上は呆れたような、だかどこか楽しそうに息をもらした。
 ひとまずの自分の失態に対する怒りを飲み込みきった後に感じるのは不思議な穏やかさだ。マグマのように燃えたぎった自身への罵倒の隙間から、ふわりふわりと昇ってくるもの、それは自分の変化への奇妙な心地よさだった。
 氷上は自分が完全無欠な人間だと思っていた訳ではない。がしかし、昔の自分であればこんなミスはなかっただろうと思うのも本当のところだった。もし、万が一あったとしても、こうまで簡単に気が静まるということもなかっただろう。短気ではなくなったと言い切るには、鎮火してなおちりちり痛む怒気が許してはくれないだろうが、多少、昔に比べれば少しは寛容になったとは言えるだろう。

 変わることを拒みながら、他人に変化することを強要していた偏屈で頑固な部分を溶かした人物がいる。触れてほしくないと思っていたところを優しく撫でてくれた人。まるで立ち上がった毛を撫でつけるかのように慈愛に満ちたその手は、恋人のものだ。
 こんなにも変わった。
 氷上は寸の間目をつぶった。暗い瞼の裏に映し出されるのは恋人の明るいけれども柔らかさを失わない笑顔だ。恋人の、赤城の、その顔はいつだって氷上を穏やかにさせるのだ。

 雨の日も悪くない。そう言えば彼は雨男だと言っていたか。まるきりそれを信じているわけではないが、出かけるときに雨が多いような気がすると思い始めれば「そうかもしれない」と言いたくなるものだ。ばからしいといわれればそれまでの何の気もなく意味もない軽い思考に、心をを緩やかに撫でられる。雨が弱くなったら急いで家に帰ろう。少しぐらい濡れることなど怖くはない。本当は、安全性さえ気にならなければ、この土砂降りの中でさえ可能な限りいっぱいにペダルを踏んで家へ帰りたい。そうして早く赤城の顔をみたいのだ。
 トンネルの中は、ほの暗く湿りはじめていた。一週間ほど前から点滅を繰り返している蛍光灯が、今日もちかちかと最後の命を燃やしている。入り口いやまたは出口であろうアスファルトの色が濃い灰色*から黒へと変わっていく。雨はまだやまない。やまないのだろうか。
 元来気の長い質ではない氷上は、やや腰を下げ視線を低くすると、まだまだ過ぎ去ろうとしない雲を軽くにらんだ。
 鞄の中には三段階に折り畳める小さな傘が入っている。それをさして自転車を押せば、約20分後には家につくだろう。ならばそうしたらいいのだ。だが壊滅的な運動神経と不器用さを持ち合わせる氷上は、過去にそれで失敗したことがある。自転車と傘のバランスを気にし過ぎたのが悪かったのか、つるりとハンドルにかけていた鞄が滑ったことをきっかけに派手に転倒したのだ。悪いときには悪いことが重なるものなのか、転んだ先には水たまりがあり、氷上はまるで雨宿りの場所を確保できなかった犬のようにぐっしょりとその身をぬらした。
 でも挑戦してみようか。いや、しかし……。
 濡れること事態は大した問題ではない。洋服はいくらでも洗濯がきくものであるし、書類はしっかりとファイルにまとめてあるので少しのことで濡れる心配はない。ただ、間抜けに転んだ事実に自尊心を傷つけることと、帰宅後に赤城にやたらと心配されることが苦痛なのだ。
 だが考えれば考えるほど、不幸なほどに思考は煮詰まり正常な判断を下すことを阻む。そうだ、二度あることは三度あるともいうが、挑戦し続けなくては苦難を攻略することなどできない。やってみようじゃないか、と決意したときだった。
 ざりっと背後で誰かが砂利を踏んだ音がした。大方どこかからとばされてきた小石が誰かの靴の下でアスファルトと喧嘩をしたのだろう。
 自分と同じ雨をしのぐ為にやってきたのだろうか、それとも何度も見た、傘をさしつつ足早に家路を歩く人だろうかとそっと、露骨にならぬように振り向いた刹那、氷上は瞠目した。
 「やあ」という声が聞こえたような気がしたが、それは幻聴であることもわかっていた。だがそれが嘘幻であれ一つの事実は変わらない。そこには、氷上の臆病な足を家路へと急かしていた理由である赤城一雪が立っていた。
 大きめな紺色の傘を差した赤城の表情は、トンネルの暗さと傘の陰に隠れてはいたが笑っていることだけはその全身からあふれる穏やかな雰囲気にわかった。
「やあ、偶然だね」
 いつの間にか声が雨音にかき消されないほどに二人の距離は詰まっていた。
 流れるような仕草で傘を畳んだ赤城は、先ほど氷上がきいた空想の音と同じ音を、薄暗い場所でさえ鮮やかな唇から紡いだ。
「珍しいね、合羽忘れたの?」
「ああ、ああ間が抜けてることにね……だが君こそどうしたんだ」
 赤城は常日頃からバスで通勤している。家に一番近いバス停はこの小さなトンネルがある道よりも少し大きな道路に設置されているはずで、バス停から歩いたところでこの場所を通ることなどないはずなのだ。
「時間があったから、ちょっと散歩がてらにね」
「こんな日に?」
「こんな日だからさ。僕は結構雨が好きなんだよ」
 でも少し激しすぎるかなとおどける赤城は、自然な手つきで氷上の額に張り付いていた前髪に触れた。形の良い目のその目尻がかすかに緩んでいる。柔らかなほほえみは、氷上が切望していたものだ。

 ああ、なんてことだろう。こんな雨の日に出会えてしまえば言うしかなかった。

「君は、とことん雨男、なのかもしれないね」
「はは、そうだね……いや、本当にそうだな。ねえ氷上」
 覚えてるかな? とすっかり雨宿りをする気になっている赤城はゆったりとした動作で右手に持っていた傘を歩行者保護用のガードレールに凭れかけさせながら、本当にわずかな身長差から上目づかいに氷上をのぞき込んで尋ねた。
 覚えているかと問われれば、たぐいまれなる記憶力を持つ氷上には「いいえ」を答えることは許されない。ことに赤城と関係している事柄は、忘れようと努めたところで忘れることなどできないのだ。
「こんな風なこと、前もあったろ? 僕たちはつくづくトンネルに縁があるみたいだ」
 ざわりとトンネルの先、内部よりやや明るいその場所で大きな木が葉を揺らした。風が強く吹いているようだった。
 あのころはまだ、こんな関係ではなかった。よく似てはいたが、最後の最後に引かれた、目をこらさなければ見ることもできない線を、越えてはいなかった。つまるところ氷上にとって赤城はまだ親友であった。いや、必死に自身に暗示をかけて親友だと言い聞かせていたというほうが正しい。
 やはりこんな雨の日だ。あの時は確か、台風が接近しているための暴風雨だった。母親にこんな日くらい自転車は止したらどうかと言われたにも関わらず、愛用の合羽を鞄に詰め込んで登校し、見事に帰り道、雨宿りをする羽目になったのだ。
 なるほど自分の詰めの甘さは昔から変わっていないではないかと思うと何だか異様におもしろくなる。けれども笑い声をあげるほどのことでもなく、氷上の薄い唇の隙間からは小さく息がもれた。
 今日雨をしのいでいる場所よりも長いトンネルはきれいに整備されてはいたが、人通りはほぼなかった。暴風に耐えきれず止めた自転車とともに、やはり外の様子を伺っていた。そしてそこにやってきたのはやはり赤城だったのだ。
 バスが運休していたから歩いてみたはいいが、傘が折れそうになると笑った赤城に、なんと言葉を返したかは覚えていない。だが、ぽっと電気が灯るかのように現れた彼に安心したことだけは覚えている。割に新しいトンネルの中でも、ビュービューとうなり声をあげながら吹きすさぶ風にどこか不安になっていたのだろう。
 それからしばらく、ふたりでとりとめない話をしていた。だいたいは生徒会のことであったように思うが、それだけではなかった。週末の予定や、以前二人で行ったコンサートのこと、赤城が試しに食べてみたというファストフードの変わったメニューのこと。出会ったときよりもぐっと縮まった距離間が心地よく、雨が止まなければいいのに願っていたものだ。
 今も、今だってそうだ。雨が止まなければいいと思う。遠い昔とは違い帰る家は同じだ。そこまでの道も二人で歩いていけるというのに、この場所にとどまっていたいと思うのは、雨のせいで感傷的になっているせいだろう。 
 濡れた服をはぎとって、温かい飲み物で息をつき、ソファーに身を沈めて二人でゆったりとしたい気持ちがないわけではない。確か冷蔵庫には、高校時代からの友人が経営する喫茶店で買ってきたプリンが入っているはずだ。疲れた体に甘味はどれほど素直にしみ通るかを知らないわけではない。だが、この薄暗い場所で、死にかけた白い光に照らされていたいと思う気持ちを、そのかすかな望みを誰が責められようか。

「やまないね」
「ああ」
 氷上の願いを叶えるかのように、雨足は強くなっていた。いかにも延々と降り続きそうにも思えるが、結局30分もすれば止んでしまうことはわかっている。それが残念で、氷上は素っ気ない声を赤城に返した。
「やまなくてもいいけど……なんてね」
 おちゃらけた風に聞こえる赤城の言葉に、氷上は目を丸くした。もしかしたら赤城も自分と同じようにこの時間がずっと続けばいいと考えているのかと思うと、言いようのない喜びがこみ上げる。
「そうだな」
 今度は赤城が目を丸くする番だった。
 軽口に聞かせようとした試すような言葉への同意が、驚くほどすんなりと氷上の唇から落ちたからだ。
「帰ったらプリンがあるな」
「ああ、佐伯君のね。でもその前に、格はシャワーを浴びた方がいいよ」
「それは君もだろう」
 少しだけむっとしたような声色に、赤城は口に笑いを含んで氷上の横顔を見つめなおした。
 いつもはきれいにまとめられている前髪が無造作に氷上の額を彩っている。朝露に濡れた芝生のようにさわやかでありながらどこか艶めかしいそれに手を伸ばす。二人の視線はさらに強く絡み合った。
「じゃ、一緒に入ったりして?」
 くすりと笑った赤城の、紅茶色の瞳の向こうに揺れるのは夜の色だった。まだ日は沈んでいないというのになんとも性急なことだ。だがいいだろう。ここは暗くて静かなのだ。まるで夜の帳が降りきった後のように。
 氷上は「そうだな」という言葉を今度は紡がず、代わりにひっそりと瞼をおろすと、すんっと鼻をならすかのような小ささで「ん」という実に怠惰な返答を返した。

 



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