うすばかげろう


 彼の未来に自分はいるのだろうか。

 病院に置かれているような少し硬いソファーは、疲れた体にはひどくつらいものであったが、椅子よりはまだましだろうなどとどうでもいいことを考える。他に考えることがないわけではなかったが、時には脳にも休息は必要だろうという言い訳で自身を納得させた氷上は、ふと視線を手元の本から窓の外へと移した。
 秋の陽は早々と沈みきったらしく、ほんの数週間前であれば明るかった外の景色はぼやけた黒に覆われている。まっすぐに伸びた道の脇には、モミジバフウの並木。宵闇の中、建物からの明かりに照らされた木々の葉は薄っすらと色づいていた。

「来た?」
 ふと隣に座っていた佐伯に声をかけられ、氷上ははっと現実、室内に存在する自身に引き戻された。じっと外を見ていたせいだろう。待ち人が来たのかを尋ねた佐伯に二度首を横に振ることで答えれば、佐伯は「帰っちまうぞ」と独りごち、再び手元の教科書らしきものに目を戻した。
 こんな風に佐伯と二人でいるのは珍しいことではない。海野と赤城の講義終了を待つことなど週に幾度かあることである。その時間を大体は勉強か読書に当てているのだが、今日はなぜだかいくら文字を追えども内容が頭に入って来なかった。
「お前、どしたの?」
「どうしたとは?」
「……なんかやけにぼんやりしてるだろ、今日。赤城と喧嘩でもしたのか?」
 高校時代からはもちろん、大学に入った頃とはずいぶん違った、フランクな佐伯の言葉づかいに最初こそ戸惑ったが、今はその中にある荒削りの優しさを認識できるようになった氷上は、そんな佐伯の優しさに少しだけ微笑みを返し、金曜日だから疲れているのだとだけ返した。その言い訳じみた言葉に、佐伯は納得したわけではないのだろうが、無理に鼻を突っ込んだ所で得策ではないと思ったのか「ならいいけど」と歯切れの悪い返答をひとつ、口を閉ざす。

 喧嘩をしたわけではない。違う。喧嘩をするほどの仲ではないのだ。

 氷上はほっそりとした指で額を抑えた。少しだけ冷たくなっていた自身の体温が心地よく、そのまま額を指に押し付ける。自然と漏れる息はため息だった。
 赤城は実にできた恋人であると氷上は思う。そう評するには恋愛経験のない氷上ではあったが、けれどもそう感じざるをえないほど赤城という男には隙がないのである。さびしいと思った次の瞬間にはそれを見透かしたように隣に寄り添ってくれ、不安になったときには何も言わずとも温かい腕で背中を撫でてくれるのだ。デートに行けばいつだってそこは氷上の好きな場所だ。愛されているのだとわかる。それは嬉しいことだ。喜ぶべきことだ。けれども与えられているばかりであることに辛さを感じないわけではない。
 もっとわがままを言ってくれてもいいのだ。感情を顕にしてくれてもいいのだ。無理強いをしてくれてもいいのだ。だが赤城はそうしない。氷上は知っている。赤城が夜、寝室をひっそりと抜け、一人トイレで欲望を処理をしていることを。求めてくれさえすれば、いつだってこの体ひとつくらい差し出す覚悟があるというのに、赤城は氷上のタイムテーブルに合わせてしか性行為をしないのだ。
 一度、その優しさに虚しくなって、赤城に迫ったことがあるが返ってきたのはやんわりとした拒絶だった。据え膳食わぬはなんとやらだと言ってやった所で、駄目だの一言でベッドに戻された。恋人を欲しいと思っただけだというのに、赤城が「無理しないで」と困ったように笑うので結局は諦めざるを得なかった。
 奇妙な距離感。隣にいるのに、そこにいないような、そんな男なのだ赤城は。好きだと言うくせに、愛していると言うくせに、抱きしめるくせに、いざこちらから向かっていくと、すいと交わされる。

(とんだ一人相撲だな)

 つい昨日のことだ。四人で夕食を食べた後の帰り道。佐伯と海野がスーパーに寄るからと、普段は曲がらぬ道を右折した後だ。氷上は二人が将来、珊瑚礁を継ぐのだという話は実に素晴らしい。佐伯のコーヒーを早くあの店で飲んでみたい。あの二人には幸せになってもらいたいとやや興奮気味にまくし立てた。というのも、この日初めて、氷上は佐伯が小高い丘の上にある喫茶店の関係者であることを佐伯自身の口から聞いたからだ。家業と学業の両立に疲れきっていた高校時代の話や、佐伯の祖父に預けられた鍵、そんなあまりにロマンチックでけれどもひたむきで健気な話に、感動屋の氷上が心を打たれないはずはなかった。
 二人に幸せになってほしいなという言葉は、軽いながらも氷上の本当に純粋な感想だった。だが赤城は静かに「そうだね」といった後、「氷上にも幸せになってほしいよ僕は」と本当に静かに、まるで落ち葉が落ちるときのようにゆっくりとそう言って、色のない笑顔で笑ってみせたのだ。
 コンクリートに落ち葉が触れるその時の、微かな、音にもならない振動のように、気が付かなければなんでもない、ただ聞いてしまえば実に物悲しい、草臥れた、赤城の声は今でも氷上の耳の奥に張り付いている。
 氷上は、本当の孤独の、凍えるほどの寒さなど知らない。けれども曖昧な優しさの痛ましいほどの冷たさを知っている。昨晩、知ったのだ。赤城の未来を祈る声に、むごたらしい、それを。
 未来を思い描くことが困難になったのは赤城に出会ってからだ。だが赤城の体の、寄り添う熱のあることの穏やかさを知ったからこそ、クリアになった道もある。氷上は不明瞭でただの妄想でしかなかった自分の家庭というものを、赤城を得ることに寄ってはっきりと描くことができるようになったのだ。だがどうだ、赤城の未来に自分の姿はないのだ。

 氷上は少しだけうつむき始めていた首をぐっと持てあげると、再度、並木道を見た。街灯と周囲の建物からの弱々しい明かりに人影が揺れている。それが海野であるかないかはわからないが、赤城ではないことはわかる。どれほど遠くからであろうとも、それがただの黒い影であろうとも、氷上には赤城であるかないか、その判断がつくのだ。
 片思いをしている時のようだと思う。高校時代、ひたすら赤城を見つめることしか出来なかった時と同じだ。その時から自分は何も変わっていない。恋愛をしながらずっと恋をしているのだ。手を伸ばせばそれを握ってくれる手があるというのに、広いベッドを埋めるもう一人分の熱は確かにあるというのに、それでも虚無感が拭えないのは、未だに一方通行の標識が立っているせいなのだ。
「今終わったって、メールあった」
「そうか。では、僕達も向かったほうがいいかな? こちらまでわざわざ来てもらうこともないだろう」
 海野からの連絡を受けた佐伯を、そう氷上が促せば、佐伯は実に適当に教科書をカバンに押しこめてすっと立ち上がった。氷上もそれに習い、まるで椅子と一体化してしまったような腰をあげ、膝の上においたままだった本をカバンの中に落としつつも歩みだす。
 自動ドアをくぐり、並木道へと足を伸ばせば、視線の先にはぱたぱたと走る人影があった。おーいと大きく手を振る小柄な女性と、その後を急ぎ足で追う影。佐伯は小柄な影の慌ただしい動きに笑いを落としながらも、同じようにかけ出してゆく。
 近づく二つの、佐伯と海野の影の奥で、いつもよりも不安定に映る恋人の影を見つめながら少しだけ歩調を早める氷上の後ろで、大きな葉がひらりと地面に落ちた。



情緒不安定(111014)