ジェットコースターロマンス


 読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋、そして行楽の秋である。
 秋の高い空の下、氷上格はただ立っていた。目の前に伸びるのは蟻の行列のように連なった人々、そして後ろに続くものも同じものだ。規則正しく二列に並んだ列のその調度中腹に、氷上は友人、そして恋人共に立っているのだ。
「なんだってわざわざ嫌な思いをするために並ばくちゃいけないんだ」
 ボソリとした声は、呟いた氷上自身も驚くほどに不愉快そうなもので、音になった途端に、はっと氷上は右横にいる恋人、赤城の顔を見た。
 目が合うと同時に困ったように微笑まれれば、先ほどのつぶやきはしっかり聞こえていたのだと知り、バツが悪くなった。
「いや、あの……」
「大丈夫、気持ちはわかるよ。二時間待って五分もかからないアトラクション。馬鹿げてるって思わないわけじゃないぜ、僕も」
 夏も過ぎ、ようやく天気が落ち着いてきたといえども、まだ日中は暑い。ぬるくなってしまったペットボトルを片手に、数分に一度一歩二歩だけ進む行列に身を委ねていることは、実に非健康的であるとも言えるが、氷上が一番恐れていることはこの行列の長さ、それではない。この列の行き着く先にあるジェットコースターなのであるが、今更赤城に「怖いから下で待っている」とは流石に言えないものである。
 そもそも赤城と二人きりでデートをするのならば、絶対にこんな所には来なかっただろう。観覧車から見下ろす景色は嫌いではないが、高所からの景観というのならば、空中庭園やはばたき城天守閣からでも十分なのだ。わざわざ入園料が一番高い遊園地を選ぶ必要はない。だが、今日は自分たちのためだけにある日ではないのである。
 赤城と氷上の前に並んでいる二人組は、海野と佐伯だ。遊園地でダブルデートをしようという計画を立てたのは海野で、それに協力をしたのが赤城。無理に押し切られて首をふらされたのは佐伯だった。氷上はすべてが計画された後に、遊園地のチケットが四枚あるのだと海野に切り出され、断ることができない状態にされていた。もちろんかたくなに拒否することだってできただろうが、いかにも浮かれた海野と、「一緒に遊園地行くの初めてだね」と赤城に言われれば「嫌だ」という短い言葉を音にすることはほぼ不可能であったのだ。
 かといって不安がないわけではなかった。氷上は男性としては細い体つきをしているが、どう見ても女性には見えない。普段のように市街地ならば、仲のよい友人同士、買い物をしているのだろうとごまかせるかもしれないが、遊園地というカップルと家族のためだけに存在するような場所ではそうも行かないのだ。仲間内で来たのだといっても、女性一人に対し男性三人はバランスとしておかしいように氷上には思えた。その不安は、このチケットを受け取ってしまった日に赤城に告げてあるが、気にすることではないと一蹴されてしまい今に至る。
 幸運なことに、いざやってきてみれば、大学生らしいグループが何組か遊びに来ており、その中には男性だけのものも混ざっていたので、不安はやや解消されていたが、今、氷上の一番の悩みはどのようにジェットコースターを攻略し、そしてその後誰にも迷惑をかけないかということである。
 経験上、氷上は乗車後に気分が悪くなる自身のひ弱さを知っている。高速でぐるぐると回ってみたと思えば、垂直に近い角度での落下。耳が痛くなるほどの叫び声に、暴力的な遠心力。何もかもが氷上にとっては敵なのだ。蒼白の顔を晒し、三人に「大丈夫か」と心配されるくらないならば、本当はこの列から抜けたほうがいいのではないだろうか。しかし、そうしたならば赤城は一人でジェットコースターに乗車しなくてはいけなくなってしまう。いや、もしかしたら後ろにいるグループで同じように余った人と、相席になるかもしれない。そう思うと氷上は、抜けてはならないと思うのだった。


 胃が、せり上がってくるとでも言えばいいのだろうか。不自然に斜めになった体に妙な圧力がかかっているせいだ。傾斜のせいで、足は狭い座席の床から浮き、力を入れることもできない。かたかたかたかた、とせわしない音が隣で響いている。同時にきりきりともきいきいともつかぬかすかな音。止まって欲しいと思いつつ止まってしまったらそれはそれで恐ろしいのだろうと思う。行列の中で見上げていた最初にして最大の落下地点は、まさに目の前に迫っていた。
「氷上」
 恐怖を煽るだけの機械音の中、ふと名を呼ばれ氷上ははっとした。しかしあまりに突然だったために、喉が「ひっ」と鋭い音をならす。
 ゆるりと氷上が隣に座っている赤城を見る、そのタイミングを見計らったように、ぎゅうっと太もも付近を押さえつけていたバーを、今にも潰さんばかりに握りしめていた氷上の手に赤城の手が重なった。
「離さなくていいから」
 赤城の、少しだけ湿った手のひらに応えようと、氷上がバーにすがっていた指をほぐそうとすれば、赤城の落ち着いた声がそれを遮る。
「大丈夫だ。だから、その……手をつないでてくれないか」
 可能な限り高く建築されたレールの上、近くなった太陽に照らされてきらりと光る銀色の棒を離した氷上が、重ねられた赤城の手を握る。まるでそれは、月が顔をのぞかせる時間に二人が寝室で薄手の毛布と絡み合いながら睦んでいる時のように、指と指を絡め合わせて。
「もちろんだよ」
 赤城はわざと顔を氷上の耳へ少しだけ近づけて、もし海野が聞いていたらケラケラと「赤城くんは本当に氷上くんが好きだよね」と笑うほど穏やかな声でささやいた。
 そんな声の贅沢さを知らぬ氷上は、ありがとうと短く礼を唇に乗せると、ぎゅっと赤城の手を握り、うつむいて目を瞑る。眼鏡を外した氷上の、顕になったまつ毛がふるふると揺れるのは、あまりに力いっぱい目が閉じられているからだった。レンズという透明な邪魔者がいない瞳が、否、そんな瞳も愛している赤城にとっては少々残念なことではあったが、それでも徐々に強く握りこまれる手や、恐怖にふるる氷上の唇は、それと同じ程に美しいものだ。
 どこかの工場から鳴り響く機械音に似た音が止まると、先頭から金切り声がひとつ。小さな乗り物に乗った運命共同体にそれが感染していく。前の座席からはしゃいだ友人たちの声が響く。風を切る乱暴な轟音と、はしゃいだ声と叫び声……もろもろの騒音の中、赤城はきゅっと氷上の手を握り返し、小さく呻く氷上の、その声と、緊張にふるえる喉をコースターが止まるまでの間ずっと、見ていた。



(111009)