あなたを待っているのです


 恋とは、駆け引きである。

 視線を、それも焼かれて死んでしまうのではないかと思うほどに熱い視線を感じるようになったのは、数ヶ月ほど前からのことだ。その情熱にも得たものの起点はわかっている。夏の、夕立の後に吹く風のように涼やかな男からだ。炎よりも熱い視線と爽やかな草原のような男。本来ならば結びつかないはずの二つではあるが、今は消すに消せないほど力強い線で結ばれている。これに興奮しないなど嘘だ。そんなことができるわけがない。

 定例合同会議を終えた赤城と氷上は、夕日に包まれる校門に向かって歩いていた。責任者として生徒会室の戸締りをし、職員室に鍵を返却してからの下校は、本来の部活動終了時間より遅いものになってはいるが、まだ校内、特に校門付近には生徒の姿が確認できる。その中の数人はどうやら赤城を待っていたようで、他校の制服に身を包む氷上と共に歩く赤城の姿を認めると、おーいとでも言うように大きく手を振って駈けてきた。
「ユーキ!! 会議終わったの? 今からうちらカラオケ行くんだけどどう? 一緒に」
 はじめに声をかけたのは、スカートをぎりぎりまで短くした女子生徒だ。隣にはその友達と思われる女子、少し後ろには恋人なのか友人なのかはわからないが数人の男子生徒がいた。彼らは赤城のクラスメイトであった。特に親しくしているというわけではないが、こうして遊びに誘われることは多い。誰とでもそれなりに親しい関係を作れる赤城のなせる技だろう。
「悪い。今日はちょっと疲れててね。また誘ってくれよ」
「えーーおっさんみたいなこと言ってーせっかく金曜なのにぃ」
 少しだけこびるような声でそう言って、もう一人の、最初に声をかけてきた生徒の隣の少女が赤城の腕を引けば、赤城の隣でただ立っていた氷上の顔が夕日の中にこわばった。もちろん赤城からはそんな彼の些細な表情の変化は見えていない。
「次は絶対つきあうから。ほっんと悪い」
 柔らかに彼女の手を自分の腕からほどき、赤城が再び断りの言葉を口にすれば、彼らも納得したのか「次は絶対だよー」などと言いながら去って行く。赤城はおざなりな返事を彼らに投げてから、さあ行こうと氷上を促した。
「いつも僕に気をつかうことはないんだぞ」
「そんなんじゃないさ。今日は本当に疲れてたし、それに氷上とこうやって帰れるのは月に一度だけだろ。優先するのは当然だ」
「でも、彼ら、君を待っていたんじゃないのか?」
「ん? まあそうかもね。でも僕だって選ぶ権利はあるよ。とにかく行こうぜ、バス待つのも面倒だろ」
 眼鏡の向こうから心配そうに、不安そうに、金色の瞳を揺らす氷上に赤城が笑いかければようやく納得したらしい氷上も歩を進め始める。こうして定例会議後に下校を共にするのは二人の習慣になっていた。校門前で赤城に誘いの言葉がかかり、それを赤城が退けることまで含めてだ。
 赤城にしてみれば貴重な氷上との二人だけの時間をクラスメイトごときに邪魔されることは実に癪なことである。ならば定例会議のある日は絶対に駄目だと先に彼らに告げておけばいい。彼らとてもう子供ではないのだ。きっちりと説明すればわかってくれるはずだ。だが赤城はそうはしない。氷上が不安そうに赤城を拝み見る、その顔が見たいからだ。
 すでに赤城は氷上の気持ち、恋情、恋慕、というその気持ちに気が付いていた。本人はひた隠しているつもりなのだろうが、仕草や声、特に視線にそれは如実に表れているのだ。あんな目を向けられて気が付かない人間がいるはずがないと言うほど、氷上の目は熱を持っている。それに、赤城自身も氷上に対して同じ感情を持っているのだ。その目が何を語っているかなど、すぐにわかってしまう。
 普通、ここまではっきりしているのであれば、告白をしてつきあいを初めてもおかしくはない。両思いだとわかっているのだ、想いを告げなほうがおかしいというものだろう。だが赤城はまだ早いのだと踏みとどまっている。氷上格という人間がどれほど臆病で慎重であるかを知っているからだ。そして彼が「常識」というものにとらわれ、社会のルールにがんじがらめになっていることを知っているからである。
 氷上に無理をさせたくはない。傷つけたくはない。そんな思いがあるのだ。自分の恋心を押さえておくことは実に難しいが、それをどうにかコントロールしてでも、氷上に与えるダメージを少なくしたいのだ。それに、そうすることで自分の告白が確実に成功すること、これが赤城にとっては一番大きな理由だ。今の状態で氷上に告白したところで、氷上という男が、はいそうですか。それではお付き合いいたしましょう。などと返してくれるかと言えばそれは違うのである。彼は間違いなく恋をしているが、同性相手の恋人をそう簡単に作れるほど器用ではない。外堀を埋めていかなければならない、否、赤城一雪という人間に慣れさせ、それを抜きにしては生きていけないという位にさせてから、言葉を紡がなければ氷上は逃げてしまうのだ。
「しかし赤城君はすごいな」
 唐突にそう言った氷上に、赤城は若干驚いたが、彼が突然このような世辞にもにたことを言うのは珍しくもないので、言葉を促すように何がすごいのかと尋ねれば、氷上は先ほどまでゆらゆらと不安定な色に濁していた瞳をきらきらと輝かせながら「会議の進行のことだよ」と少しだけ声を張った。
「みんな君の言葉に聞き入っていたじゃないか。僕ではああはいかないからね。君の生徒会選挙の演説、聞いてみたかったなあ。きっと学ぶべき点が多かっただろうから」
「やけに褒めるね。でもそんなたいしたことじゃないよ。今日は議論も白熱していたから僕がどうまとめるのか、みんなも気になってただけだろ」
「いいや違うよ、違う。僕にはわかる。僕だって君の言葉に聞き入っ、て……そ、そう、聞き入っていたよ!」
 言葉を濁しながらも、ぐっと拳を握った氷上が言う。実際のところ、氷上は赤城の言葉を聞いていたというよりは、赤城に見入っていたところが多かったのだ。その素振り、声、視線……無機質な生徒会室を一気にさも崇高な議場にしてしまうカリスマ的な赤城一雪という人間に引きつけられていたのである。
「その割には、僕が確認したとき慌ててたみたいだけど?」
「い、いや、それは」
「ま、氷上でもぼんやりするのかと安心したけどね」
「どういう意味だい?」
「君はいつも集中しているだろ? それはすごく大切なことだしすばらしいことだけどね、少し力を抜いてもいいんじゃないかって思ってたんだ。ずっと肩肘張ったままじゃ疲れるもんだろ? いかに優秀な人間でもさ」
「それはそうだが、でもあの時、いや、いいや何でもない。そうだな、前にも言われていたな、僕は少し力の抜き方を覚えるべきなんだ」
 一瞬だけ言葉に詰まった氷上の頬が、暖かな落日の光の中でも赤くなったのを赤城は見逃さなかった。色の白い、おそらくすべやかな頬が触れてくれと言わんばかりに薄く染まっている。
 ごくりと喉が鳴る。今すぐにそこに指を這わせ顔をこちらへ引き寄せて、すべてを奪ってしまいたかった。けれどもまだできない。氷上の気持ちを抜きにしても、そんなことをすれば自分がのぼせてしまうのだ。
 赤城にとっての精一杯のスキンシップ、それは氷上の肩をぽんと軽くたたくことだ。何かの拍子に、たとえば今日であれば会議が終わったときに労いの言葉と共に、街で見かけたときならば挨拶と共に、軽く肩をたたく。それだけしかできない。
 本当ならばその肩に、予想と違わず細いその骨張った場所にずっと手を置いていたい。そこから伝わるであろう熱を手に記憶させたい。そしてもっともっと氷上の身体に触れたくてたまらない。
 何度夢に見ただろう。きっちりと着こなされた氷上の制服を剥ぎ、その下に隠された身体に手を這わす。欲望のままにうごめく自分の手によってあげられる氷上の声。細いだろうか、高いだろうか。きっと恥ずかしがって氷上は必死に唇を噛むのだろう。まるで色づき始めた果実のように人を惑わすその唇を噛み、色素の薄いけれども長い睫毛を眼鏡ごしにふるわせるのだ。

 気が付けば、バス停に着いていた。はばたき学園で定例会がある日は自転車通学の氷上もバスを利用する。彼一人であれば、きっと自転車を利用しているのだろうが――と言い切れるほどに氷上は自転車が好きなのである――生徒会役員たちと連れだって来なくてはならないのだ。一人だけ自転車を運転するわけにもいかない。だからこそ、定例会の日はこうしてバス停までゆっくりと歩き、共にバスを待つことができる。不幸なことに二人のバス停は道を挟んで反対であるが、バスの発車時刻は十分程度の時差がある。二人はまずはじめに氷上が乗車するバス停まで歩き、そこで共に氷上のバスを待つ。そして氷上の乗車後、赤城は自分のバス停まで歩くのだ。
 もちろん最初氷上はそれに納得しなかった。自分が一本逃すべきだと入って聞かなかったのだが、簡単にそれを受けいれる赤城ではない。自身が羽学へと赴いた際は、氷上が自転車を押してバス停まで付き合ってくれているではないかと、どうにか氷上の意見を抑えつけ今に至る。
 バスが来るまでの時間、それはそう長いものではない。とりとめのない話をしていればすぐに過ぎ去ってしまうものだ。だがそれ以外に何かができるのかといえば二人には他の手段はなかった。
 喫茶店に誘えばいいのかもしれない。よければ家に来るかと気軽に言えばいいのかもしれない。自分たちは同性で、そしてまだ友人なのだ。友人同士で家に誘い合うなど普通のことだ。誰もおかしいとは思わないだろう。もし自分たちがこうも想い合っていなければ、そこにはなんの歪も生じないはずなのだ。
 坂を登ってくるバスを、赤城はいつだって憎らしく思う。坂がもっと長ければ、もしくはもっと急でバスが登るのが困難なものであれば、ほんの数秒、それはきっと氷上が瞬きをするだけの時間かもしれないが、少なくともそれだけは共にいられるのである。何ができなくても、ただ隣に氷上を感じることができるのである。
 ブロロロロという独特の走行音が遠くに聞こえてくる。今日も時間が来てしまったことを知り、赤城は気付かれぬようにそっとカバンを握る手に力を込めた。夕焼けが、また氷上を、愛おしい人をさらって行ってしまう。手を伸ばしたい。伸ばして細すぎる体を絡めとって、さらってしまいたい。けれどもまだできない。
 「バス、来たみたいだぜ」
 今日は星がよく見えそうだと空を見上げていた氷上に赤城が告げれば、さっと氷上は坂に視線を投げ、薄く口を開きながら笑って「本当だ」と呟いた。氷上も別れを惜しんでいるのだ。できることならば、赤城とこうしてずっと共にいたいが、そのために何を口にしていいかを知らないのである。
「気をつけて。また来月。それまでに何かあったらメールしてくれよ」
 迫り来るバスに、手を上げて乗車を知らせる氷上に赤城は言いながら、心の中では何がなくったってメールしてくれていいのだと落とす。まだ早いと自分を抑えつけて言えぬ一言が、本当に尚早なのかそうではないのかはわからない。臆病風に吹かれているだけかもしれない。氷上がなんのために? と尋ねてくるかもしれないと思うと、その言葉は喉の奥に張り付いて音にならずに消えてしまうのだ。
「今日もありがとう。赤城くんも気をつけて帰ってくれたまえ」
 ひらりと氷上が手を振って、排気音と共に開いたドアに吸い込まれていく。赤城はそれに笑って手を振りながら、灰色の制服をまとった友人を見送った。

 反対側の、少し先にあるバス停まで歩く数分、去っていくバスの音を遮断するために赤城は音楽プレーヤーを取り出してイヤホンを耳に押しこむ。再生ボタンを押して最初に流れたのは、クラシック音楽だった。自分の趣味ではない、氷上にすすめられた楽団の演奏だ。CDラックと音楽ソフト上に増えていくクラシック音楽たちは、赤城と氷上をつなげる頑丈な橋の一つである。だが今だけはそれを耳に入れることが辛く、赤城はすぐに別の曲を選択し、再生した。
 陽が落ちる中、長い影とともに道を行く。いつかこの影が二つになればいいと思いながら。



ロマンチストチキン(110918)