あなたを見つめているのです


 恋とは、たちの悪い病である。

 黒板の前に立ち、甘いけれども甘すぎず凛とした声で、彼は本日の会議のまとめを述べている。
 自分にはなぜ彼らがそう感じるのかはわからないが、生徒会役員の中にはこの会議を退屈だと言うものもいる。実際に、自分が会議を進行していたときには船をこいでた者もいた。責任感のなさにはほとほと呆れたが、今の状況から判断するに睡魔の原因の一つはじぶんにあったのだろうと思う。なぜなら今、ここにいる全員は彼に、はばたき学園生徒会長赤城一雪に、引きつけられて集中しているのだ。
 彼は実に話がうまい。言葉を繰ることに長けているだけではなく、緩急の付け方や、聴衆へ向けての視線の投げ方、そのひとつひとつがまったくスマートなのだ。だからこそ、金曜日の午後という、疲労に身体が重くなりながらも心だけは週末に向けて浮かれしまう時間でさえ、難なく彼の独壇場に切り替えてしまうのだろう。
 本当ならば自分の才能のなさを恥じ、反省し、彼を見習おうとしなければならないのだろうが、残念ながらそんな余裕はなかった。彼の姿を見るだけ、それで精一杯になってしまうからだ。
 数人の女子役員と同じだ。彼女たちは彼に熱い視線を向けている。会議に集中しているからであったり、議題が興味深いものだったからというわけではなく、彼女らは彼に淡い思いを抱いているのだ。生徒会役員としての自覚を持てと、数ヶ月前ならば叱責していただろう。だが今は、自分がその声を受ける側になってしまったのだから情けない話である。まったく滑稽なことに、赤城一雪という男に恋する彼女たちと同じ気持ちを、自分も持っているのだ。  そもそも同姓から見ても魅力的な彼を、好きにならない女生徒などいないのだろう。生徒会長という一見近寄りがたくも思える堅い役職につきながらも、彼は皆に慕われていた。「ユキ」と気軽に彼をあだ名で呼ぶ生徒が多いことは、気にくわないながらも知っている。カラオケに行こう、買い物につきあってくれ、ちょっとお茶でもしていかないか、などという提案を投げかけられる彼の横に自分は立っているからだ。
 合同会議の際は生徒会長のよしみか、赤城とは下校を共にしている。自分にとってはとてつもなく嬉しいことではあるが、校門にさしかかるときにかかる誘いの声はいつだって自分を不安にさせた。いやでも耳に入るのだ。
 金曜日。学校が終わった時点でもう週末に入っていると勘違いし気分の高ぶった同級生が赤城を誘うのも当然といえば当然であるし、彼と遊びに行くのは楽しいに違いない。いや、楽しいに決まっている。彼は話術に長け、気配りも上手く、親切なのだ。自分と違って、流行にも詳しく、女性の扱いもなれている、ように思える。一緒にいて楽しい人間なのだ。だが、いつだって自分に気遣ってくれる彼は、友人たちの誘いに一度と手首を縦に振ったことはない。
 優しい人だから心配してくれているのだろう。友人を作るのに苦労するタイプであることは、出会ってすぐのころに言い当てられている。友人の少ない自分を気遣ってくれる彼のやさしさに、甘えているのだ。でも、その優しさが時には酷く辛いのも事実だった。自分はただの手のかかる友人だとしか思われていないことがわかってしまうからだ。もしかしたら友人とさえ思われていないのかもしれない。手のかかる奴、それくらいのものだ。けれども彼と時間を共にできることが嬉しくてたまらないのは事実だ。月に一度だけのこの時間は、大切で尊いものだ。
 彼を誘う声を聞く度に怯える。断ってくれると知っているが、彼を捕られてしまうのではないかと思うと、怖くて仕方がない。こんなにも惨めで浅ましい生き物は他にはいないだろう。
「僕のことは気にしないでくれ」と言いながら、心の中では行かないでくれと叫ぶ。同時に赤城を誘う彼らをずるいとさえ思う。毎日毎日同じ学校で彼と時間を共有していることに、嫉妬するのだ。はば学に入学できなかったのは自分の未熟さのせいであったのに、平気で他人を責めるこの醜さを、どうにかしたいが、どうにもこうにも気持ちを抑えることはできない。
 そして彼が断るたびに僕は喜びに打ち震える。下校をともにするだけの短い時間を共有できると。彼とまだ一緒にいられるのだと。

「氷上会長、何か意見はありますか?」

 恋しくてたまらない声に名を呼ばれ、はっと思考が飛んでいたことに気が付く。会議中になんという失態だと思いつつも冷静を装い「特にはありません」とだけ答えれば、彼は「そうですか」と言ってにこりと笑った。やわらかな笑顔だった。
 笑顔というのは一般的に誰が作っても美しいと表されるものだが、これほどに魅力的な笑顔を自分は他に知らなかった。優しくて柔らかでそれでいて知的なその表情に、どくんと大きく心臓がはねる。
 もしもあれが、自分だけに向けられるものだったならばどれだけ幸せだろうか。けれど現実にはそんなことはなく、優しい彼は誰に対してもあんな風に笑いかける。たまらなかった。そのたびにあふれ出すヘドロのような感情に飲み込まれていく。その汚く淀んだものをどうすばいいのかわからない。どうすればそれを排除できるのか、どうすればそれに絡め取られずにいられるのか、何もわからないのだ。
 彼は自分からの意見がないことを知ると、会議終了を告げ、自身の席へと荷物を取りに戻って行く。月に一度、彼と会える日が終わる。あっさりと事務的に終わってしまう。
「おつかれさま」
「ああ、今日も有意義な会議だったな」
 ぽんと彼が肩をたたいてきた。いつものこと、軽いふれあいだ。友人だったら当然のことなのだろう。本当は触れられた肩が燃え上がるように熱くて、そこから離れていく手が悲しくて仕方がないが、決められた言葉を紡げば、彼も満足そうに笑った。
 縮められないこの距離を何度憎く思っただろうか。だが臆病者の自分は一歩、踏み出すことさえできない。すべてを失うくらいならば友人というポジションを保っておきたいと思うのは普通だろう。一かゼロしかない世界で、二を求める自分の愚かさに嘆きつつも、自分は必死に一に、その小さくて脆い世界にしがみついているのだ。
 そもそも男が男を好きになるなど間違っていることだ。同性愛者が増えようとも、彼らの結婚を受け入れる国が増えようとも、やはりこの感情は公にはできないものだ。ばからしい感情だ。すぐに捨てて燃やしてしまってしかるべきものだ。けれどもこれが自分の初恋なのだ。
 恋をするということがどういうものか、その甘美さも辛さも知らなかった自分が初めて知った恋がこれだ。実ることのない空しい恋ではある。けれども彼が、彼がいたことによって得たこの感情を手放すことはできなかった。

 いつか彼は、かわいらしい彼女を作るだろう。それも遠くない未来に。彼ほどの人だ。きっと恋人もすばらしい人に違いない。そうして僕はこの恋を、意味のないこの感情を捨てざるを得なくなるのだ。だからどうかその日までは、密かに彼を思っていようと思う。
 恋を、してもしてもしたりない。想いは止められず、止まらない。友人を邪な目で見ている罪悪感を抱きながらも、僕はきっと自分の恋が彼の幸せによって潰えるまで、ずっと静かに彼を見ているのだろう。



撃沈(110917)