ともしびとて


「失礼します」
 こんこんという短いノックの後に、おきまりの言葉が一つ。ああもうそんな時間だったかと時計を一別し「どうぞ」と返せば、最近新しくなったばかりのドアは音もなく開いた。


 はばたき市に拠点を置く一流大学に、研究者として落ち着いて五年がたとうとしている。いつか海岸で友人に語ってきかせた将来の夢とは少し違ってしまったが、それでも順風満帆の人生を歩んでいると言っていい。
 この大学を卒業した後すぐにアメリカに渡った。アメリカを選んだ理由は、研究の最先端であったこと、今では恩師となったこの研究の第一人者である教授から誘いを受けたこと、そしてかの人の思い出というには哀しすぎる歴史が染み着いていることだった。
 幼い頃、従兄につれられて行ったプラネタリウムから始まった自分と天文学の関係は、今日まで耐えることなく続いている。今では恩師の名とともに著名な学者として評価されるようにもなった。自分の執念と周りの人からの声援、そしてなにより一つの忘れがたい恋慕のおかげだろう。人間、感傷的になりすぎてはいけないが、そうとしか思えないのだから、言葉があまりにロマンチックな上にばかげて聞こえても仕方のないことだろう。
 氷上は、デスクワークの疲れを極力減らすように設計された質のよい椅子に背中を預け、少しだけ息を吐いた。
 窓から見えるキャンパスには今日も学生たちのにぎやかな姿がある。ぼんやりと人の流れを追えば、ふとそこに懐かしい装いを見つけ、氷上はぐっと眉間にしわを寄せ目を凝らした。
 人より悪い、けれどもそれの持ちうる最大限の力である一転を見つめ続ければ、やはりその人物が纏うのは羽ヶ崎学園の制服であることが確認できた。
 オープンキャンパスにはまだ早すぎる時期に珍しいこともあるものだと思いつつも、母校の懐かしい灰色の制服に目を閉じて記憶の深くに自分の身を投げ込めば、おそってくるのは哀婉な思い出の数々だった。

 高校時代。それはまさに青春であった。ブレーキを持たなかった自分が、初めて得た友人たちとそれをどうにか作り上げ試運転を始めた時期だ。充実していた。自分の信じる正義と信念、それらを議論しあえる友人。深くなり始めた学問への興味と天体を語ることを厭わずにいてくれた親友。そして、恋愛。すべてが、はじめは忌み嫌っていた学園にあったのだ。
 ふっと息を吐く。濃縮された記憶のかけらの中から、拾い上げるだけで崩れてしまいそうなひとつに触れると、いつもこんな風に息をもらさずには居られなくなる。自分の初めての、そして今もなお続いている恋愛を思うと、呼吸さえ困難になるのだ。まるで海の底に居るような――もちろんかなづちである氷上にはそんな経験はないのだが――不愉快な苦しさに苛まれる。

 それは確かに、そして確かな、恋だった。

 その恋は、褒められたものではなかった。男同士であったということを、二十一世紀なのだ放り投げておけと思ったところで残る背徳は事実だった。そう、氷上の恋人は教師だったのだ。
 羽ヶ崎学園化学教師、若王子貴文、その人こそ氷上の高校時代に色を添えた、氷上の愛した男だ。
 彼はいわゆる天才だった。氷上とて余りに早い出世と年齢の割には豊かな研究成果に周りから天才だなんだともてはやされてはいる。事実、アメリカにいる恩師も氷上を数十年に一度の逸材、天才研究者だと手放しで評価してくれている。だが氷上にとって天才とは自分ではなく若王子だった。
 彼はその天才的な頭脳故にアメリカで青春時代を殺され、すべてをおいて逃げるようにこの街に来た不思議な男だった。優しいというと語弊があるが、誰にも心を開かず全てを受け流す質は、大人からの干渉を嫌う年頃の生徒たちには「優しい」と評判だった。
 氷上にとって、若王子はつかみ所のない雲のような男だった。ふわふわと空を漂う浮き雲。些細な変化でその身を隠してしまうくせに、ある時は鬱陶しいほど青い空で存在を主張する。恵みの雨をもたらすこともあれば、突然の雷雨で人を脅かす。酷い男。酷い男だった。
 高校三年間の間、氷上は若王子に担任を受け持ってもらったことはない。それが幸運だったのか不幸だったのか、その判断は今でもつけられずにいるが、当時は残念に思っていたことは確かである。まれにみる勉強熱心な生徒であった氷上は、時間が許すかぎり天才的な頭脳を有する若王子に質問していた。クラスが同じであればどれだけ便利だっただろうとそれは悔しがってみせたものだ。
 そんな氷上が若王子の城と呼ばれていた科学準備室に入り浸るようになるのに、そう長い時間を要さなかった。休み時間は購買の新商品争奪戦に忙しかった若王子も、放課後は翌日の準備や生徒の課題をみるために大体は科学準備室にいたからだ。氷上は生徒会活動の合間を縫って、準備室に通い続けた。そしていつしか、二人の関係は教師と生徒から、人間同士のそれになっていた。
 きっかけは若王子の冗談だった。冬の日。日が一番短い頃だっただろうか。暗くなった窓の向こうを見ながら若王子が「やや、もうこんなに暗くなってしまった。論文は明日見せることにしましょう」と言ったことから、始まったのだ。
 夏場であればまだ明るい時間なのだから、ここにいさせてくれと主張する氷上を若王子は困った顔でたしなめ、最後には暗くなったら悪い人が活動しやすくなります。危ないですよと、まるで、それはまるで小学生に言い聞かせるようなことを氷上に言った。もちろんそれに反論しない氷上ではなかった。自分は高校生、しかも男子である。気にしないでくれといきり立った。激昂とまではいかないが高ぶった氷上に返されたのは、若王子の存外強い腕と、暖房のせいで乾ききった唇だった。
 ぐっと引かれた腕によろけた氷上の身体を受け止めた若王子は、氷上のやかましい口が新しい言葉を紡ぐより先に、自らのものでふさいでみせたのだ。
「だめですよ、氷上くん……こんなに簡単に捕まっちゃうんですから。大人は、君が思っているよりずっと卑怯です」
 そう言った若王子の真剣な表情を、氷上は鮮明に覚えている。思いだそうとすれば、ムービーで一連の流れが脳内で再生されるほどには。
 とにもかくにもその日から、氷上と若王子の関係は教師と生徒から離れていった。
 はじめこそ、氷上は悩んだ。何が起きたのかと。冗談だったのか、それとも若王子が同性愛者でずっと自分を狙っていたのか、様々な道から答えを見つけようとして失敗した。迷路のように入り組んでしまった氷上の思考に一つの光を与えたのは、親友である男の「状況はわかったけどさ、氷上はどう思ったんだい? その時」という質問だった。
 いつもならば自分の悩みをきいてくれる従兄にはまさか相談できぬことであるしと、苦し紛れに他校に在籍する友人に尋ねた時、彼はそう訪ね返してきたのだ。そして氷上はあのハプニングを嫌だとも汚らわしいとも思っていない自分に出会った。むしろ時間があれば指で唇を押さえ、何かを反芻していた自分に。
 そこからは転がるようにはやかった。卒業するまでの間、若王子のテリトリーで二人は何度も身体に触れ合った。貪るような早急さで身体を繋げたのは、若王子が少しずつ傾き始めた氷上の身体を、そのふらりと揺れる腕を、乱暴に引いたからだ。まるで、初めて二人が口づけをしたときのように若王子が腕を引けば、氷上は抵抗することもなくよろけてみせ、若王子の長いけれどもむなしいほど冷たい腕に抱かれることを選んだのだ。
 関係が深まれば、休日に二人で出かけることも多くなった。時々ぽつりぽつりと漏らされる若王子の凄惨な過去に、氷上は時々胸を痛め、時に叫び、時に泣いた。若王子は氷上が泣く度に、少しだけ嬉しそうにして、けれども泣いてはいけないとまじないか何かのように何度も繰り返した。
 二人で野良猫の世話をし、星を見、一つの鍋からラーメンを啜った。まるで数十年前の歌謡曲のような生活だったが、氷上にとってはかけがえのない思い出だ。同級生たちが持つ華やかな恋愛の思い出ではないが、そこにあった穏やかな時間は、確かに氷上の中に新しい感情を芽生えさせてくれたのだ。だからずっとこんな日が続くのだと思い込んでいた。錯覚していたと言ってもいいかもしれない。恋愛に終わりが来ることを、初めての出来事の中、必死に溺れないように手を動かすだけの氷上は知らなかったのだ。
 別れは突然だった。
 春の日。忘れもしない三月二日。卒業の笑顔と涙に溢れていたその日、氷上を襲ったのは春一番のように激しく吹雪のように凍てついた、救いようもない悲しみだった。
 思い出を重ねてきた科学準備室で、若王子はまるでいつも通りに「さよならですね、氷上くん」と言った。それがままごとのような恋愛の終わりを示すものだと、氷上は最初理解できなかった。けれども若王子はその後に「もう氷上くんは自由です。今まで先生に付き合ってくれてありがとう」と、淡々とした口調で続けた。
 あまりの出来事に涙を流すことも忘れた氷上に、若王子は手を振っただけだった。校門で他の生徒にするときと同じように、おざなりな素振りを見せただけだった。
 君ならいい学者になれる。大学に行ってもがんばってください。身体には気をつけてくださいね。何一つ、氷上の望んだ言葉を口にのせず、いち生徒である氷上に完璧な、完璧すぎるはなむけの言葉を押しつけて、若王子は氷上を送り出したのだ。
 その午後、泣きわめくことも、怒ることもなく、氷上は海岸で立ち尽くしていた。親友がわざわざ他校から氷上を探しに来るまでの間のことを、氷上は今でも思い出すことができない。冬の日、この海を渡っていけばアメリカがあると言っていた若王子の声に、その記憶に縋り付いていたのだろう。
 浜辺の砂を踏む足音に振り返り、そこに親友の姿を見た瞬間、氷上はもう若王子が自分を迎えに来ることも、自分の前に現れることもないことを知り、吠えるように泣いた。全ては終わってしまったのだと、息を吸うことさえ後数秒でできなくなってしまうような、そんな非情な終わりが来たのだと、氷上は叫んだ。そして本当に、息が吸えなくなってしまえばどれほど幸福だっただろうかとは、その数年思い続けたことだ。

 横暴で突然な別れから数日後、氷上は友人の力もあり立ち直った。そして若王子と話をしようと母校を訪れた。しかし、ようやく力を取り戻した卒業生を迎え入れた校舎に若王子の姿はなかった。かわりにそこにいたのは、生徒からは堅物と陰口をたたかれていた、けれども品行方正な氷上のことをとりわけ気に入っていた教頭だった。
「若王子くんなら突然辞めてしまったよ。まったく……やってきたのも突然だったが辞めるのもしかりとは。あの人にも困ったものだ」
 渋い顔をしながら、定年間近の教諭はそう言ったが、やはりあのつかみ所のない男が心配なのか「元気でやっていてくれればいいが」と独り言のようにつぶやいた。
 すべての言葉を聞き終えた氷上は、若王子が誰にも告げずにこの場所から煙のように消えてしまったことを理解した。
 だが認めたくない一心で自転車のペダルを壊さんばかりの乱暴さで踏み、 氷上が次に訪れたのは若王子が住んでいた築三十年をこえるアパートだった。しかし、思い出せば甘く苦い二人の思い出が染みついたその場所にあるのは、今やむなしさだけであった。猫の餌場も、彼が大切にして家庭菜園と呼んでいた野菜プランターもないその場所は、静寂に彩られよりいっそうアパートを古めかしいものに見せていた。白よりも音もなく色もない、ただの空間だけが広がるその場所で、氷上は膝をつき、泣いた。
 アパートも学校も、行きつけのスーパーも、頻繁に若王子が散歩をしていた道も、どこもかしこも氷上はくまなく探した。けれどもいつだってそこには探しているものも、その影さえもなかったのだ。
 どうしてあの時に、若王子が理由もなくさよならを告げた日に、掴みかかってでも自分の手を若王子のそれに縫い付けなかったのかと後悔した。全て遅すぎることはわかっていた。もう全ては起きてしまった後だとは、痕跡を探して歩いた氷上は知りたくないほど知っていた。

 一つの転機が訪れたのは、それからさらに数日がたってのことだった。それは氷上の尊敬してやまない従兄によってもたらされた、否、従弟から奪うようにして得たものだった。
 氷上は、若王子が従兄の上司である天之橋を恩人と慕っていることを知っていた。二人の間にあった偶然の出会いと、天之橋がいつでも若王子を心配していることさえも知っていた。
 いつだって若王子は天之橋さんには大きな恩があると言っていたのだ。もしこの場所からいなくなることを決断したとしても、それを恩人に告げないはずはないだろう。
 そう信じてやまなかった氷上にとって、天之橋に会うこと、それが最後の頼みの綱だった。
 どうにか天之橋に会いたい。なんとしても会うのだというひたむきな願いと決心を胸に、氷上は氷室に今までにあったことを打ち明けた。もちろん従兄が頭から湯気を出さんばかりに怒ることは予想していた。けれども氷上は引かなかった。もう、引くことはできなかった。
 どれだけ己と若王子の過去を汚らわしいものだと罵られ否定されようとも、大学入学前に下らないことに時間をついやすなという真っ当なアドバイスを怒鳴り声で与えられても、忘れろという一番の特効薬を強制的に処方されても、氷上は一歩も動かず、窶れきった姿のまま氷室に頭を下げ続けた。
 元々、日に日に痩せて窶れていく氷上を痛ましく思っていた、そして何より最終的なところで従弟に甘い氷室が折れたのは、氷上がハンガーストライキを決行してから丸二日してのことだった。
 一回きり、また上手く行かなかった場合には諦めることを条件に与えられた、はばたき学園理事長天之橋一鶴との面会に、氷上はそれこそすべてをかけていた。もし天之橋が若王子の場所を知らなければ、他の誰も知ることはない、それはもはや明確だったからだ。
 結論から言えば、天之橋もまた若王子の足取りは知らなかった。しかし卒業式のあの日に、若王子は天之橋邸を訪れ「一晩だけ庭先を貸して欲しい」と頼み込んだのだという。
 若王子にしては荷物の多い姿に、天之橋も彼がこれから何をしようとしているのかは察していた。けれども、無理矢理邸内に招き入れることには成功したが、詳しい話は何一つ聞き出すことができなかったのだと後悔の念を顕わにし、柔らかな瞳を悲しげに揺らしながら氷上に「すまないね」謝罪した。
 解決にはいたらなかったことは明らかであったが、氷上は「なぜ出て行くのか」という天之橋の問いに若王子が「ここにいられなくなったから」と答えたという一つの事実を得た。
 その時も、そして今でも、なぜ彼がここにいられなくなったのかその理由を氷上はもちろん知らない。ただそれを受け止めることしかできないでいる。そうなのかと納得して見せるしかできないが、氷上はこのときに、若王子が次に自分の前に現れる日が来るかもしれないというかすかな希望を、理由もなく抱いたのだ。

 それからの氷上は、まるで若王子を忘れたかのように学問に没頭していった。大学生活が始まったことも氷上の沈みきった感情を慰めることに大いに役立った。知的好奇心の強い氷上のような人間にとって、深海のごとく深い学問の世界は、他のいかなる感情をも忘れさせるほど魅力的な存在なのである。とはいえ、若王子のことを本当に忘れてしまったわけではなかった。
 天之橋邸からの帰り道、氷上はあの海岸で心を決めたのである。若王子に自分を忘れさせないために、いつかまたふらりと若王子が戻ってくることへの希望を込めて、できるだけ早く研究者として名をはせようと、そう決心したのだ。
 若王子は、アメリカの研究所からこの市に逃げてきた後も、学問と接することをやめなかった。彼は彼の知的財産によって金を儲ける連中とその利権に群がる蟻は嫌悪していたが、学問を憎むことは一度もなかった。それは誰よりも近くで若王子と勉学にはげんだ氷上が一番よく知ることだ。つまり、どこにいようとも若王子は決して学ぶことを止めはしない。それならば、名をあげて科学雑誌に取り上げられるようになれば自然と、若王子の目に氷上格という名は飛び込むだろう。
 氷上はその日が来ることを自分の夢の一つへと組み込み、研究に励み続けた。
 今自分がどこの大学にいるのか、誰の元で学んでいるのかという情報を、どこにいるかもわからぬ思い人に伝える連絡手段として論文投稿ほど優秀なものはなかった。

 五年前、アメリカからはばたき市へと帰ってきた氷上は一層仕事に熱を入れた。恩師や同僚に惜しまれ、他の大学からのオファーを断ってまでここ、一流大学に戻ってきたのは、灯台の伝説を思い出したからだった。
 運命だの伝説だのという非科学的なことを心の底から信じ切っている訳ではない。最近生徒から「ロマンチストだ」と評価されてはいるが、ロマンチックに決めたいからという理由でこの場所に帰ってきたという訳でもない。ただ氷上は思ったのだ。二人が曖昧ながらも一番幸せで、けれどもうら寂しく哀しかった、あの部屋のあるこの場所こそ、若王子を待つに相応しいと。
 今やもう、若王子が自分を好いているから戻ってくるとは氷上とて思ってはいない。時間は残酷なほど早く、だが確実に過ぎさってしまったのだ。けれども氷上は、若王子にとってこの場所で過ごした、それはもちろん自分以外の生徒との間でも得られた思い出は彼にとってかけがえのないものだと確信していた。
「彼ははね学がすきだった」という論は氷上の一番確かで一番非論理的な持論である。
 笑われることには慣れている。伝説の青年は忍耐不足だったのだ。自分だったら人魚が現れるまで人魚に存在をアピールしつつ待つよと親友に告げたとき、胸にひまわりを咲かせスーツをきっちりと着こなした彼さえ「相変わらずロマンチストだね。だけど人魚と言うにはあの人は小賢しすぎるよ」と笑ったのだ。もちろん「柳の下のドジョウにならないといいけど」とちくりとやることも忘れなかった。だがそんな親友の弁にも、いいや二匹目を待ってみようではないかと笑って答えられるほど氷上の気持ちは凪いでいた。
 それに氷上は意外にもここでも生活を気に入っていた。単に四年間を過ごしたことがあるからというわけではない。なんだかんだ言えども、後輩に当たる学生はかわいいものがある上に、時折自分の論文を読んだと言って他大学からわざわざ訪ねて来てくれる生徒もいる。
 本日も、ややここから離れた県にある大学に籍を置くという学生が、午後四時に現れる予定である。二ヶ月ほど前に初めてのメールがあり、そのうち訪ねて話がしたいという学生に都合のいい日を教え、それが今日に決まったのは、一ヶ月半ほど前だっただろうか。
 他大学の学生の来訪はこれが初めてのことではない。講義は堅いと評判の氷上であるが、学生には親切であるとも言われていた。

 いつものことだ。だから、気にもとめなかったのだ。

「こんにちは、氷上先生」

 これほどばかげた話があるだろうか。いやこんなばかげた話が現実であるはずがないのだ。

 瞬きをする。息をのむ。そしてもう一度ゆっくりと瞬きをする。数秒が過ぎ去ったが未だに何が起きたのか、頭脳は処理し切れていないようだった。
「お忙しいところ失礼かとは思いましたが、今日は質問があって訪ねさせていただきました」
 何度も聞いたことのある台詞を、何度も聞いたことのある耳に染みついた声が紡ぐ。やわらかでやさしいこの声を、知っている。
「一つ目は、先生は今でも探している人がいるかということ。二つ目は、高校時代の恋人のことを覚えているかということです」
 自分でもどのようにしたのかわからないうちに、立ち上がっていた。ふらりとふらりとよろけながら歩く。転びそうになって手をかけた先にあった小さな台からバサリと白い紙があたりに散らばった。あれは何だっただろうか。明日の会議の資料だったか、それとも送られてきた書類か、いや恩師のメールをプリントアウトしたものだったかもしれない。だがどれも今は必要のないものだ。何の役にも立たないものだ、この“学生”の質問に答えを与えるためには。
 たどり着いた先に待っていたのは、細い腕だった。知っているものとは少しだけ違うが、同じ熱を持ったものだ。
「います。覚えても、います――」
 それはあなただというより先に、力一杯、捕らわれた腕がひかれ、次におとずれたのはやはりよく知っている胸板だった。衝突した衝撃に眼鏡がずれるが、もはやそんなことはどうでもよかった。どうせ眼鏡をしていても、視界は霞んでいたのだ。

「遅くなりましたが、僕は若王子貴文と言います。先生の大ファンです」

 上から降ってくる声を、耳はしっかりと受け止めていた。こみ上げるのは荒い息に混じった嗚咽だ。息の吸い方をすっかり忘れてしまったかのような、初めて息を吸うかのような、深海から水面へとたどり着いたときのような、そんな不器用な呼吸と共に溢れる涙が唇をぬらす。
 塩っ辛いそれは、あの日海岸で飲んだ味と同じだった。けれどもこれはこうも暖かかっただろうか。こうまで柔らかく自分の頬を潤しただろうか。
「先生」
 何年が過ぎたのか数えるのを辞めた日はいつだったろうか。忙しさの中に彼を忘れた日もあった。不安を覚える日もあった。だが、こんな日が来ることなど、本当は予想していなかったのかもしれない。
 涙はなぜ涸れないのだろうか。来訪者の、彼の、シャツが濡れてしまうとわかっていても涙を止めることはできなかった。情けないだろうと自分を叱咤しても、流れ続けるそれに対して効力はなかった。
「相変わらず泣き虫ですね、氷上くん」
「……誰が、泣かせてるんですか」
「ははっ、僕です、先生ですね、ね? 先生」
 やめてくださいという反論は彼の耳に届いただろうか。すっかり湿りきってしまった彼のシャツに吸い込まれてしまったのではないだろうかと危惧していたが、それが杞憂であったことを軽い笑い声に知る。
 そっと背中に添えられていた手が、頭を撫でる。あの細い指の間に自分の髪があるのだと思うと、心臓が跳ね上がる。じわりじわりと熱が込み上がりる。はしたないとは思うがすでにコントロールは失われている。  自然な流れで髪から頬へと手が滑り降りてくる。ああこの手だ。ずっと待っていたのはこの手なのだ。
「もうひとつ質問です」
 くっと顔を持ち上げられれば、自然と視線が交わる。深い色の瞳に吸い込まれそうだった。この人は、こんなに強い目をしていたのか。いやこんなに強い目になったのだ。あの日手を振った彼はもっと頼りない瞳で自分を見ていたではないかと今になって気がつく。ああばからしい。とんだ手遅れもあったものだ。
「僕と、やりなおしてくれますか? ついでに怒っていないと言ってもらえるともっと助かります」
 少しだけふざけた言葉と言い回しは、自分が心の中にためていた思い出と変わってはいなかった。何もかも変わってしまったようで、もしかしたら何も変わっていないのかもしれない。だけれど結局なんだってかまわないのだ。今、ここに彼はいるのだから。
 返事の代わりに背伸びをし、かすめるように唇を奪う。最後に口づけたのは春になる前の、けれども穏やかな気温に恵まれた日だっただろうか。言葉など、どう作り出すのかを忘れてしまった。何をどう言えば伝わるのかもわからない。だからこれでいいのだ。
「若王子先生」
 そう言った自分の声は、自分でも恥ずかしくなるほどに飢えていた。だがそれを恥じている暇などないのだ。頭を支えるように添えられた掌に力が込められているのだから。
 深く口づけられる。絡め取られた舌が熱い。余裕のない動きで口内を荒らし回る乱暴さを懐かしんでいれば、それに気がついたのか、一度口は離れていく。だが一秒もしないうちに、唇を食まれ、すぐに濡れた音があたりに再度響く。どちらのものかもわからぬ唾液が喉に落ちて行く。夏はまだもう少し先だというのに、身体が酷く熱かった。
「氷上くん」
 唾液にぬれたつややかな唇からの懐かしい声が懐かしい呼び名を落とす。間近にある彼の睫がふるりと震えている。その影の落とされた瞳が熱を帯びていることは明白だった。
「僕は、少し怒っていますからね」
 縋るような色をした瞳にそう言葉を返せば、途端に目が大きく見開かれる。だがすぐに形のいい唇は笑みを描き、同時に眉が情けなく下がった。見慣れた困った笑顔に思わず、声を漏らして笑えば、わざとらしく目の前の頬が膨らんだ。
 冗談の中にかすかに見える落胆に、少しだけ罪悪感を抱かないでもなかったが、こうでも言わなければいまここで、彼を貪ってしまいそうだったのだから仕方がないのだ。

「言い訳は、今夜聞くことにします」

 だから先生、今日はどうか、今夜はどうかその手でこの身体を包んでいてください。もし明日の朝、あなたが手を振って去ろうとしても、今度は絶対に、今度こそは絶対に僕があなたを離さないから。この身体をあなたに縫い付けて、あなたを絶対に、逃がさないから。



ロマンチストバカ(110824)