すべってころんだその先を


 赤城一雪は悩んでいた。何をかといえば「将来について」という彼が今まで一度も悩んだことのない事柄に、非常に優秀な、と他人に評されることに慣れた脳みそを余すことなく活用しつつも煩悶していた。


 これまでの自らの人生を言葉で表現するとしたら、波風のないものだった、というところだろうか。もちろん有名高に入学するため、一流大学に入学するため、司法試験に合格するためにと人より多く勉強をした過去はある。が、しかし、人よりも効率よく勉強することができる質だというのも一つの事実であり、必死に勉強したいう表現が相応しいほどではないのも確かだった。
 友人も多く、人に嫌われることはあれどもその人数はおそらく好かれていると判断していい数よりも少なかった。気が向いたときに声をかけて遊びに誘う相手困ったことはないし、小中高といじめにあったこともなければ荷担したこともなかった。すかした奴と言われることはあったが、すかした奴の特権か、彼女というものを得ることも困難ではなかった。童貞を捨てたのは十五から十六になりかけの頃だ。
 過去に数人存在した彼女とも特に大きなトラブルは起きなかった。誕生日はもちろんのこと、ばかげた記念日――それは初めてキスしただの、一周年だのそういう類いのもの忘れたことはなく、そういう意味では彼女らのご機嫌取りは完璧にこなしていたといえる。
 別れる時もそう大変なことはなかった。たいてい相手が飽きるか嫌気がさすかで、自分はそれに一言謝って「じゃあ明日からはいい友達でいよう」などと言ってみせた。独占欲なんてものは全くなかったし、離れがたいと思ったこともなかった。
 まったくもってくだらないことではあるが一部ではステータスになるらしい、告白された数は告白した数よりも圧倒的に多かった。
 くだらないといえば、嫉妬と呼ばれる感情を受けたことはあるが、うまく受け流してきたと思う。難関と呼ばれる司法試験に現役で合格した際、学部の連中が口々に口にした祝いの言葉の中に、それらしきものが多々見受けられたが、学友の中からはみ出しものにされることはなかったし、教授陣うけも一層よくなった。

 人生設計、などという大仰なものは未だしっかりと組み立てたことはないが、小学校を卒業する頃には、はば学入学が決まっていたこともあってかこのまま高校もはば学に進学し一流大学を受け弁護士になろうと漠然と思っていた。そしてその通りになっている。子供が絵空事のように思い浮かべた人生設計と言うよりすごろくのように曖昧なものの通りに進んできた。だがこれからはきっと違う。
 小学生のころ人生ゲームよろしく思い描いた自分の人生は、弁護士になり結婚し、一軒家を買い、子供を二人ないし三人もうけるというものだった。ついでに犬を飼おうなどとも思ってもいた。だが今は、違う。弁護士にはなるだろうが結婚はしないだろう。一軒家はどうだかわからないがきっと買わない。子供はもうけることはできない。もし、自分の欲望のままに進むのならばの話だが。
 どこで間違ったかという表現は、間違いを犯したわけではないので不適切だが、どこで自分の道が安穏とした幼少時代の想像からそれてしまったのかと言えば、間違いなくその起点は高校時代にある。あの時に、氷上格という存在に出会うことがなければ、きっと今、自分は悩んでいることもなかった。

 氷上格。名前からわかる通り男性であるが、彼は赤城の現恋人だ。
 二人の出会いは、羽ばたき学園と羽ヶ崎学園の生徒会交流であった。赤城ははば学生徒会書記、氷上は羽学生徒会風紀委員としてその場にいた。ちなみに赤城が抱いた氷上の第一印象は「気の毒な奴」である。実直と言えば聞こえは悪くないが、あまりに風紀やら規則というものを信奉しすぎていた氷上の言葉は堅い上に強く、たとえ正しいことを言っていたとしても誰にも受け入れられることはなかった。不器用な男だなと思いつつ、特に助言を与えることはしなかったのだはじめは。
 だが人生、何がどうなるかはわからない。いつの間にか氷上との間に友情が芽生え、そしてこともあろうに気がついたときには氷上に惚れていたのだ。不器用でけれどもどこまでもまっすぐな氷上格という存在は、赤城にとって明けの明星よりも目映かった。
 異性愛者であることを自認していた赤城にとって、男に惚れた経験はもちろん氷上が初めてであった。もしかすると、人に惚れたということ自体が初めてだったのかもしれない。赤城は氷上を手に入れるために奔走したが、それは思い出せば穴に入りたくなるほど不格好なものだ。
 恋愛ごとに疎い氷上を静かに気がつかれぬように絡め取っていったと言えば格好もつくが、赤城はそのとき自分がどれほど必死だったかを知っている。とにかく氷上に拒絶されることが恐ろしくて仕方がなかった。じわりじわりと自分という存在を氷上の人生に溶かしだし、友人から親友へ、それから恋人へのランクアップのために日々奔走した。
 そうして確実に氷上が「否」と言うことはないだろうという段階になってから人生で初めての、そしておそらく最初で最後である告白をした。好きだと告げる声が情けなく震えていたことを赤城は覚えている。回りくどい言葉ではなく、ただストレートに想いだけを告げた。長々とした台詞を考えなかったわけではないが、冬の黄金色に輝く夕日に照らし出された氷上の顔を見たときには、すべて忘れていた。

 弛まぬ努力によってようやく得られた氷上の恋人という肩書きを、赤城は何よりも大切にしている。一生離したくない存在とその肩書きを、ぐっと拳の中に握り込めて過ごしてきた。
 ともに一流大学に進学し、同じ部屋に住み、一日の大半の時間をともに過ごすことは赤城にとって今まで経験したどんな時間よりも幸せな時だった。いや、今もそれは続いている。続いてはいる。
 明日も明後日も寝起きを共にすることは当然として、明日は夕方から水族館に出かけ夜の水族館を堪能する予定であるし、土曜はクラシックを聴きに出かける予定がある。晴れていたらコンサートの前に空中庭園に登ろうという計画はまだ氷上に告げてはいないが、三度の飯より空中庭園が好きな氷上が断ることはないだろう。日曜日は映画でも見ながら家でゆっくりと過ごすのも悪くない。

 二、三歩先の未来は埋められている。手の中にあるだけの時間はすべて楽しい予定に溢れている。恐れるものは何もないというように、まるで未来をごまかすかのように。見えない、だが考えなければいけない未来をもっと見にくくするように、障害物を置く代わりに必死に予定を立てている。こんなことは何にもならないことはわかっていた。だが、止められないのだ。見たくないものに蓋をすることが、どんなに愚かなことかわかっていても。

「お風呂、先にいただいたよ」

 夏場であろうともゆっくりと湯につかることを好む氷上は、茹で上がったタコのように赤くなっていた。元が色白であるせいで、すっかりのぼせたように見えるが、幼少の時から長風呂派であった氷上がのぼせることはそうあることではない。
 麦茶を片手に握った氷上は、湯気を出しそうなほどに赤くなりながらもしっかりと寝間着を着込んでいた。ドライヤーをあてたのだろうが少しだけ湿り気の残った髪は、昼間はきっちりとセットされているのが嘘のように無造作に垂らされている。それによって氷上の印象は少しだけ幼くなることを知ったのは、初めて共に夜通しの天体観測をし終えた次の朝だっただろうか。氷上は少しだけ疲労を顔ににじませていたが、眼鏡の奥の瞳は、まるで星空を焼き付けたのではないかと言うほどにきらきらと輝いていた。意外に童顔なのかと冷静に思った反面、そのあどけない顔をかわいいと思ったのも事実だった。こんな風な関係にならなければ、きっとあれが最後だったに違いない。だが、幸運にも今は毎日それを見ることができるのだ。
「どうしたんだい? ぼんやりして」
 反応がなかったことを不思議に思ったのか、大丈夫か? とかすかに眉をしかめる氷上に何でもないと笑いかければ、そうかと言って氷上はそのままソファに腰を下ろす。小さな音と、少しの振動を感じつつ氷上を見つめれば、視線に気がついた氷上が「なんだい?」と存外に大きな眼を向けてきた。
「なんだかやっぱり今日はおかしいんじゃないか? あ、もしかして熱中症か!? 今日も暑かったからなあ。とにかくそうならばすぐに横になった方がいい。僕は氷枕を――」
「氷上」
 急ぎ足で氷枕を探しに行こうとする氷上が腰を上げ、とりあえずと麦茶をローテーブルへ置こうとした瞬間、赤城はその手をがしりとつかんだ。意図しない方向からの衝撃に氷上の手がぶれ、ちゃぽんと間の抜けた音とともに透明感のある茶色い液体がコップから飛び出せば、後を追うようにしてぼたぼたと床とテーブルから水が無様に着地した音が響く。
「うわっ! 何をするんだ急に!!」
 上げかけていた腰を反射的にか完全に伸ばし、つり上げた目で赤城を睨み付ける。まだ氷上の手を握ったままの赤城は、そんな氷上の視線を押し返すように力強い、けれども怒りではない何かを孕んだ瞳で氷上を見ていた。
「赤城、くん? どうしたんだい、本当に」
「話があるんだ。座ってくれ」
「だが麦茶が」
「そんなの後でいいから」
 ぐいっと手を引かれた氷上はそのままぼすんとソファに腰を再び落ち着ける。だがやはり麦茶の水たまりが気になるのかちらりと床に視線をやっていた。

 柄じゃない、と赤城は自己嫌悪に陥っていた。いつもの余裕はどこに消え失せたのか、否、氷上の前では余裕などというものは虚勢でしかなかったが、そのむなしい偽りさえどこかへ行ってしまったのだからたまらない。さぞかし氷上は変に思っているだろう。心配をかけるつもりではなかった。怯えさせるつもりもない。ただ、自分の感情をコントロールできなかったのだ。情けないとは本当に思う。これが自分かと思うと泣きたくなってくる。だが今、今言わなければならないこともわかっていた。

「氷上は、卒業したらどうするつもり?」

 赤城は今にも頭を抱えたくなっていた。なんて直球でなんて格好のつかない言葉を紡いでしまったのかと、後悔してもしきれないが、他にどう尋ねればいいかもわからなかった。長い夏期休暇中。多くの学友が就職活動に精を出しているのだからこの質問が突拍子がなさすぎることはない。だが一体誰が、風呂から上がってきた状態の恋人を捕まえて、こぼれ落ちた麦茶を無視してこの質問を投げるだろうか。
「あれ? 前に言わなかったかな。僕は院に進学することになっているけれど」
 ようやく麦茶のことも吹っ切れたのか、氷上がくるりとこちらを向いて不思議そうに首をかしげる。それもそのはずだ。氷上が進学することは、氷上がそれを決断した日に聞いているし忘れてもいない。記憶力が人よりも優れている自分がこの手のことを氷上に聞き返すことは今までになかったことなのだから、氷上が訝しがるのも無理はないことなのだ。
「いや、きいたよ。で、僕は就職するってことも言ったよな」
「ああ、きいている」
「うん。いやさ、この部屋の契約どうしようかって、思ってね」
 金色の瞳が、まるで子犬のそれのように光っている。純粋に疑問を持っているということを表現するその瞳を傷つけるのが怖い。いやちがう。自分の言葉に返されるであろう答えが怖いのだ。
 とんとん拍子で進んできた人生だった。もちろん自分の努力もあったが、本当にうまいこと曖昧な設計図通りに人生を形作ることに成功してきた。危機に直面することは今が初めてなのだ。
 氷上と出会ったことによって修正された人生の地図をうまく歩んでいけるのか、その自信がない。自分が、一人っ子の氷上と共に歩むことは、氷上だけではなく氷上の両親、そして氷上の敬愛する従兄を失望させることにもなるだろう。自分は決して他人に気を遣うタイプではない。正直なところを言えば、氷上の両親と氷室が怒り狂っても泣きわめいても、個人的に気にとめることはないだろう。だが彼らがそうしたとき、氷上はきっと悲しみに顔を白く塗り、涙をこらえるだろうと思うと、とてもじゃないが耐えられないのだ。だからといって、はいじゃあそうですね楽しいままごとはおしまいだと、そう言われるのはもっと恐ろしい。
 結局自分は狡いのだ。何も失いたくないとそう思っている。今持っている幸せなもの全てを手の中に閉じ込めたまま、美しく、楽しい未来だけを望んでいるのだ。
「どうしようというのは、引っ越しを考えているってことかい?」
「まあ……そんなところだね」
「ふむ確かにそれは考えなければいけない問題だな」
 澄んだ声が響く。底まで見渡せる湖のように澄んだ声は、ただただ美しいが言ってみればそれだけだ。何も理解していない素直で美しいだけのものだ。
「僕は大学に残るからここでもかまわないが、赤城くんのことを考えると別の場所に移るほうが良策かもしれないね」
 ほらみろ。何もわかっちゃいない。
 氷上は恋愛のその全てにおいて初心なのだ。始まりも知らなかったのだ、当然終わりを知ることなどない。恋愛に終わりがあることをきっと恋愛小説でしか知らないのだろう。いいや、恋愛小説なんてもの、氷上はまともに読んだことさえないかもしれない。
 そんな氷上に恋愛を教えてきたのは自分だ。どこか恋愛を自分と関係のないものだと思いこんでいた氷上の手を取って、きれいなものだけを楽しいものだけを与えてきた。今の彼に終わりが、その線が見えないのは当然だ。見せまいとしてきたのだから。勘づかせることさえ恐ろしくて強引に手を引いてきたのだから。そして余ったもう一方の手で、正義をはかる金色の目を隠し続けてきた。
 ああ、自分のせいできっと氷上は泣くだろう。痛みに対する耐性をつけさせなかったのは、責任を手の中に隠してきたのは自分が一番よくわかっていることだ。
「ああ、だから僕は引っ越そうかと思って」
「氷上はさ、一度実家に帰るだろ? 大学にも不便はないだろうし」
「おばさんたちも喜ぶよ」
 矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。一言、いやただの一息でも氷上がついてしまえば自分は言葉を続けることができなくなっていただろうと知っているからだ。大切なことを言い切れなかっただろうと。

 僕は臆病者なのだ。

 こんな自分に氷上は失望するだろうか。ああ、失望してくれたらどれだけいいだろうか。何も言わず、氷上を傷つけてしまうだろう自分の我が侭をこれ以上告げずに、氷上が自分から離れると決めてくれればどれだけ助かるだろう。自分勝手な言いざまに自分でも笑いがこみ上げてくるが、そうだったならばと望まずにはいられなかった。
「……赤城くんは、そうしたいのか?」
 なんてひどい奴なんだろう。
 ああどうして、どうして君はそれほどに鈍感であり続けるのだろうか。そんなことは知っていただろうともう一人の自分がため息と共に囁く。ああ知っていたさ、痛いほどに知っていた。氷上が鈍感でそれ故に目映いことを知っていた。だが今は、それを嘆いてもいいだろう。自分を棚に上げて、氷上を怨んでもいいだろう。
 愛おしい涼やかな声に抉られる。心臓を、魂を、抉り取られる。
「……」
 無言が何よりも強い肯定であることは、さすがに氷上もわかっているだろう。けれども氷上は知らないだろう。口を開いたら、それはほんの少しでも、息を押し吐くだけのスペースであれども口を開いてしまったら、嗚咽が漏れてしまうことを。目の前の“完璧な”恋人がそうはしまいともがいていることを。
 無様な自分を見せたくない。この期に及んで、この期に及んでだ。
 取り繕うことは得意だった。そうして生きてきた。そう、恋人の前でさえもだ。恋人の前で、だからこそだ。格好いい赤城一雪でいたかった。氷上にとってずっと“完璧な”赤城くんでありたかった。笑われてもいい。けれどもそうなのだ。だから誰か、なんて愚かなんだと笑ってはくれまいか。全てが終わった後に馬鹿だと指を指して笑ってはくれまいか。
「僕は、いやだな……あ、すまない、いや、だけど」
「いや、わかってはいるんだよ。赤城くんの将来を考えればきっと僕たちは別れた方がいい。赤城くんは弁護士になるわけだし……そ、その、あれだ、男の恋人がいるだなんてことはきっとよくないことだ。それは僕がどんなに真面目に君を、君を愛していたとしてもだ。それくらい僕にだってわかるけれど……けれどすまない、僕は――」

「――僕は君を離せそうにない」

 この世に予測できないものはどれくらいあるだろうか。天気から始まって明日のできごとにいたるまで、人は完璧に物事を予測することはできない。では、自分の人生においてはどのていど予測できるだろうか。十二歳の時の自分にそれを尋ねれば、大方またはほぼ全てと答えるだろう。十七の時の自分は、だいたいのところだが氷上格に関することを除いてと答えるだろう。では今はどうか。今は、何も見えない。何も見えないのだ。そう、氷上格を除いては何も。

 息をするよりも、瞬きをするよりも、早かった。考えるよりも先に、脳が思考を始めるその一秒よりも少ない時間よりも先に身体は動いていた。
 夏に負けてより一層細くなってしまった身体を抱きしめる。こんなに乱暴にこの身体を掻き抱いたことは今までなかった。いつだって柔らかな手で、壊してはいけないと細心の注意を払っていた。もし壊れてしまえば自分はこの先に何もなくなってしまうと思っていたからだ。そしてこの身体は壊れやすいものだと、思っていたからだ。だが、どうだ。氷上は腕の中にいるではないか。精一杯抱きしめても、崩れ去りもせず、握りつぶされもせず、ここにいてくれるのだ。
 慣れ親しんだ呼吸が聞こえる。海の音よりも穏やかで、新緑をを撫でる風よりも軽やかなそれに、知らぬ間に涙が零れだしていた。氷上の前で泣いたのは、初めてのことだった。
「格、格、格格格格……いたる」
 君を離さなくていいか。君を奪ってもいいか。君を愛してもいいか。
 ひどく臆病で格好の悪い男だと失望してくれてもいい。だから、離さないでくれ。その身体で捕らえていてくれ。そして、どうか、どうか愛していてくれ。
「ゆきくん」
 呼吸の合間に落とされた柔和な声が耳の中で溶けていく。それは驚くほど優しく鼓膜を揺らした。

 恐れていたのはどれほど目を見張ったところで見えもしない未来だった。目をこらせば見える、安定した生活を無視することだった。そしてなにより、氷上を手放すことだった。けれどもそれはごちゃごちゃに入り交じり、まるでパレットの上で混ぜられた絵の具のように黒くなっていった。どれだけ多くの白い絵の具を投入しようとも黒から変化しないであろうそれで氷上を塗り上げてしまうことが恐ろしかったのだ。だが、現実はもっと簡単だった。
「格」
 彼は白ではなく透明だった。彼は水であり空気だったのだ。
「僕はもう迷わない」
 覚悟しておけ。これから先にどんなことがあっても、たとえ君が逃げたがっても、君が離さないと言ったように、いやそれより強い力で絶対に君を離さない。
「ああ……ありがとう」
「どういたしまして」
 なぜ急に氷上がありがとうと言ったのかその真意は定かではない。不確かであることを前提に予想するならば、勝手な言い分を聞いてくれて、迷っていた自分を受け入れてくれて、どうもありがとうというようなことだろう。
 やはり氷上は何もわかっちゃいないのだ。けれども何もわかっていないくせに、いとも簡単に答えの出なかった人の悩みを解決してしまう。これだから、たまらないのだ。
「思うに君は天才だよ、格」
「おだてても何も出ないぞ」
 ぱちくりと大きな目をゆっくりと瞬かせてから氷上は見当外れの、だが実に絶妙で自分好みの返事を返す。
「でもって、完璧だ」
 くすりと笑いながらそういえば、馬鹿にされたと勘違いした氷上の顔はみるみる歪んでいく。まったく鈍感で仕方がない。仕方がないほど鈍感だ。けれどだからこそ、君は君なのだろう。


 赤城一雪は悩んでいた。将来について悩んでいた。けれどもそれは、非常に優秀な、と賞される頭脳二つの前には全く取るに足らないものだった。



ワカゾー(110731-0808)