Stop! Never Stop!


 氷上格は生徒会風紀委員である。常に風紀の腕章を右腕にまとい、光る眼鏡の奥で透明なレンズよりも更に鋭く目を光らせる。まったくもってどうでもいいことにまで及ぶ規範を、一字一句違わず覚えている氷上は一部生徒から、歩く六法全書ならぬ歩く校則と恐れられていた。
 そんな氷上の忌み嫌うものの一つ、それが不純異性交遊である。もちろん不純異性交遊禁止という校則があるわけではない。これは氷上の倫理観、学生ならば学生らしい清く正しい付き合いをするべきだという氷上の強固ながらも曖昧な考え方に基づいているものだ。だから氷上はずっと心に決めていた。もし自分に恋人と呼べる人間が出来たとしても、高校を無事卒業するまでは互いに清い身体でいようと、そう硬く決めているのだ。
 氷上格十七歳、もちろん童貞である。

 そんな氷上は今、危機に直面していた。神聖なる学舎、その中でも氷上が愛してやまない図書室で氷上は阿呆のように立ち尽くしていた。
 人の少ない雨の放課後。ひどくなりそうな雨脚を懸念して生徒会の面々も早々に帰るようにと促された。氷上とてそうしようと思っていた。雨傘を差して自転車を運転することはできないので今日はバスで帰ろうと、そう思っていた。けれどもその前に少しだけ図書室に寄ろうとそう思ったのが間違いだったのだ。
 ざあざあと、雨音は図書委員すらいない無人の図書室にうるさいほどに響いていた。委員が不在とあれば正式な手続きをして本を借りることはできない。仕方ないから今日は目当ての本を探すだけにしようと、天文関係の本が並ぶ書棚へと足を運んだ。そこまではよかった。
 濃紺色の背表紙の氷上が求めていた本は、事もあろうに古い棚のその一番上に収まっていた。手を伸ばしてみようともあと少しという所で届かない。面倒だが踏み台を持って来るしかなさそうだと通路に出、二つの本棚を過ぎたところで氷上は立ち止まって息を飲んだ。
 踏み台が置かれている科学セクションその場所には、二人の学生がいたのだ。男子生徒と女子生徒、そのふたりは身体を寄せ合っていた。いやそれだけならばまだいい。氷上がそこにいることに気がつくこともなく、二人はついばむような口づけをかわし、そしてそれを徐々に深いものにしていったのだ。
 人気のない空間に遠慮して足音を忍ばせていたのが徒となったと思った所で後のまつりである。一体これはどうしたことだろうと混乱する頭で氷上は、ゆっくりと踵を返した。神聖なる学舎でなんてことをと思う反面それを頭ごなしに叱ることができない自分を氷上は知っていた。野暮な奴だと思われたくないという理由ではない。氷上にも同じような経験があるのだ。いや、同じような時間を紡ぐ相手がいるのだ。
 慣れ親しんだ天文コーナーで氷上は立ち尽くす。ぼんやりと天を仰ぐように顔をあげれば濃い色をした背表紙が目に飛び込んでくる。そんな折だった。
「これか」
 いつの間に現れたのか。耳元に落とされた低い声に氷上は声を上げそうに鳴りながらも、白い手で自分の口を塞ぎそれをどうにか飲み込んだ。
 背後に妖怪のような不自然さで現れたのは志波勝己、野球部のエースであり同級生、そして氷上の恋人その男だった。
 氷上より約十センチ高い身長と、筋肉のついた長い腕を駆使した志波は、野生の勘なのか氷上の求めていた本に手をかけていた。
「し、しばくん」
 顔だけで振り返った氷上は囁くように志波の名を呼んだ。志波はそれに答えることをせずに本をすっと引き出すと氷上の手にそれを渡す。
「これだろ?」  耳元で囁かれる声の甘さに氷上は一瞬目眩を覚えた。志波は氷上を背中から抱くように背後に立っている。そして言葉を紡ぐことのあまりない口を耳に寄せている。
「なんで」
 なぜこんな所にいるのか、なぜいきなり現れたのか、なぜこんな体勢になっているのか、聞きたいことは山ほどあれど氷上の口から出たのは短い三文字だった。志波はそんな氷上を喉で笑うと、白い耳を唇だけで軽く食み、それから「寝てた」とやはり短い言葉を返した。 「っ!」
 びくりと身体を震わせて、それでも「だからっていきなり何をするのだ」と怒鳴りそうになった口は瞬時に志波の大きな手によって塞がれていた。自然と身体が更に密着し、無理やりに口を押さえられている様は、まるで強盗にでも合っているかのような状態だったが二人にとってそれはもっと色めいた意味を持っていた。
「大きな声だすと、ばれるぞ」
 再び氷上は志波の腕の中で身体を揺らした。志波も見たのだ、棚二つ向こうでちちくりあうカップルを。
「ばれたらお互い気まずいだろう」
 脅すような言葉だった否それはまさに脅しだった。
 仕方なく氷上は全身の力を抜いた。いきりたっても仕方がないと判断したからだ。志波はそんな氷上の緩んだ身体をきゅっと抱きしめて、再度耳を食む。
「や、やめてくれ」
「大丈夫だ、あっちも夢中で気がつかない」
「そういう意味じゃ」
「ばれるぞ、黙ってろ」
 ぺちゃりと少しだけ湿った音と共に耳殻を舐められる。痺れるような感覚が全身を奔っていく。
「氷上」
 必死にその気色の悪いような気持ちの良いような感覚をやり過ごしていれば、吐息と共に名を呼ばれ氷上はゆるりと背後の志波を仰ぎ見た。興奮に色づいた頬と、潤んだ瞳が志波に向けられた刹那、志波は氷上の身体を無理やりに反転させ、血色の良い唇を奪った。
「んっ…!」
 乱暴な口づけに氷上は志波の身体を叩こうと思ったが、音を発生させてしまうことを恐れてそうはできなかった。ただひたすらに力一杯手のひらで志波の胸を押せども、屈強な肉体はぴくりとも動かない。

 酷くなっていく雨音の中、同じように激しくなる口づけを甘受しながら氷上はゆっくりと瞳を閉じる。
 何かが自分の中でおかしくなって行ってしまうようだとは志波と会った時から思っていた。自分のきっちりと整えた部分を無理やり荒らされているようで、けれどもそれが心地よくてたまらないこの感情が恋というものなのだろうか。だというのならば、恋はどれほど危険なものだろう。だがそこまでわかっても止められないのだ。たとえこれが不純同姓交遊だとしても、もう。
 氷上は混乱した頭の中を黒に塗り、そうしてそろりと志波の背に手を回す。
 誰もいないかのように暗くなった図書室には、雨音だけが大きく響いていた。



帰れよ(110710)