恋の手前の一歩前


 こんなことを、思っていたことはないだろうか。大きくなったら恋人が出来て、大人になったら結婚して、数年後には子供を授かって、などと思っていたことはないだろうか。まるでそれが当然でそうなることが自然だと考えもせずに思っていたことは。

 氷上格が、その普通であり普遍なのだと勝手に信じ込んでいたことが実は困難なものであることに気がついたのは、彼が中学で一年と半分を過ごした時分だった。クラスの中、そして学校の中で極端に人気のある、つまりモテる人間とそうでないがそれなりに友人を作り賑やかに異性のグループと交流する人間、そしてまったく他者と関わらずその良し悪しはあれども常に孤独に過ごしているタイプとが存在することに気がついた。抱いていた幻想は、異性にとって魅力的な人間にとっては簡単なことであっても万人とってはそうではないことにも同時に気がついたのだ。そう、もしかしたら恋人を作るということは、思っているほど簡単なことではないのではないかと疑い始めたのだ。
 明らかに友人のいなかった氷上はそれを打ち明ける相手さえいなかったのだが、彼にとってそれは大した問題ではなかった。というのも彼には正しい道を追求するという大きすぎる目標があり、それを理解できない人間とは友人としてさえつきあえないと思っていたために、学校内でいわゆる好きな人などというものが出来なくても特に問題はなかった。
 恋人をつくることはそう容易いことではないが、自分を理解してくれるすばらしい人物がまだ現れていないために問題は困難を極めている。などと本当に思っていたのである。
 しかし今、氷上はそうは思えなくなっていた。氷上とて、年頃なのである。
 華々しく、たとえば王子様などと呼ばれている佐伯のようになりたいわけではない。けれどもときどきほんの少しだけ、羨ましく思うのだ。その明るく眩しい世界に自分も足を踏み入れたいと、本当にときどき思う。言ってみればそれは些細な夢だ。
 もちろん不純異性交遊を推奨しているわけではない。学校帰りの意味のない寄り道などきっとしないほうがいいのだ。けれどもそんなことがあったら、もし好きな子がいて、二人で他愛もないことを話して、笑い合って、そして「また明日」と別れて……などという本当に意味もないようなことがとても尊い時間に思えるのだろう。もしかしたら、そんな風に誰かと過ごすのも悪くはないのではないだろうか。

「赤城君は恋愛についてどう思う?」

 突然の、そしてとんでもない氷上の問いかけに、赤城が口に含んでいたウーロン茶を吹き出さなかったのは奇跡に近かった。
「……どうしたの急に」
 口の中でぬるくなった茶を必死に飲み下した赤城が、いつもより少しだけゆっくりとした口調でそう返せば、氷上はうーんと小さく唸った。
 氷上は見たのだ。今日、この生徒会室に来る前に赤城が告白されているところを。それもはば学の生徒ではなく氷上と同じはね学の生徒からだ。
 はばたき学園の生徒であるということが一種の魅力的なブランドであることは氷上とて嫌というほど知っている。それの大体は学歴という意味ではあったが、同時にその学歴というものが異性に対しても効力を発揮することくらいはなんとなくわかっていた。だからといって、数えるほどしかこの場所に現れたことのない相手にやすやすと告白するということが、氷上には信じられないのだ。あの女生徒は赤城の何を知っているというのだろうか。
 けれども赤城がはね学の生徒から告白されたのはこれが初めてではない。氷上は以前にも見たことがある。赤城が少しだけ始末が悪そうに「参ったな」などと言いながらかばんの中にしまったラブレターの存在を知っているし、それを渡したのが誰であるかも知っている。なぜならその少女は奇しくも氷上と同じクラスだったのだ。見ようと思ったわけではないが見てしまった封筒には級友の名がかわいらしい文字で踊っていたのだ。
 氷上の知る限り、その少女もそれから今日告白していた少女も、赤城と話したことなどないはずだ。はね学での赤城は、ほとんどの時間を自分と一緒に過ごしている。生徒会役員でもない限り赤城と話す機会などないに等しい。けれども彼女たちは赤城に告白した。それはつまり赤城はそれほどに魅力的であるということなのだ。平たく言えば赤城はモテる男なのである。
「急に、というか……その、赤城君はそういうことに通じていそうだと思って。いや悪い意味ではなく!」
 まさか告白されているところを何度か目撃した。きっと恋愛経験も豊富なのだろうから何かそれに関する話が聞きたいなどとまったくもって思春期まっしぐらなことを正直に言えるはずもなく、氷上はお茶を濁した。
「氷上くんもそういうことに興味があるんだね」
 ちょっと意外だったよと笑う赤城の朗らかな声に、氷上は心底安堵した。恋愛についてどう思うかなどと突然友人に問うのはあまり一般的なことではないのではないかと、冷静になりつつある頭で思い始めていたからだ。けれども気にとめた様子もない赤城に氷上はほっと息を吐く。
 氷上にとって赤城は唯一であり絶対の友人だった。時には尊敬する従兄のように自分を諫めてくれもすれば、一緒に歩んでもくれる。得がたく失いがたい友人、それが氷上の中での赤城の評価だ。嫌われたくも呆れられたくもなかった。
「興味があるというか……気になってしまって」
「それ、興味があるってことだろ? おかしいことじゃないんだし誤魔化さなくてもいいよ。ただ氷上くんの満足行く答えを与えられる自信はないけどね」
 冗談なのか本気なのか、赤城はさらりとそう言って焦っている氷上を見た。氷上はその視線に自身でも理由のわからぬ焦りを感じながら、別にどんな答えだって良いのだと早口に答えていた。それは嘘ではない。氷上はなぜ自分が赤城にそれを問うたのか、問うてしまったのか、その明確な理由がわからなかった。赤城が異性にもてるからといえばそうだが、それならば佐伯にだってきけることであるし、他にも「女たらし」と名高いウェザーフィールドにだって尋ねられることだ。けれどもただ赤城にそう言ってしまったのは、たまたま赤城が今ここにいたからかもしれないし、そうではないかもしれない。氷上自身、よくわかっていないのだ。だから答えがどんなものであってもよかった。ただ氷上は知りたいのだ。
「恋愛についてなんて言われるとちょっと恐縮するけど……そうだな、でも、氷上くんが考えているほど複雑怪奇極まりないもの、ではないことは確かだね」
 くすりと落とされる笑いは嘲笑のそれとは違っていたが、同じように軽い響きで空気を揺らす。氷上は机をはさんで自分の前に座る赤城を見た。いや、ずっと見てはいたのだが、その言葉に押されるようにして瞬きをし、新しくなった視界に赤城を再び招き入れたのだ。
 赤城は穏やかな表情でそこにいた。なんでもないことだよと普段と変わらぬ顔でそこにいる。時に赤城は難しい仕事もこんな風に軽い様子でこなしてしまう。自分が行き詰まってしまったときも「氷上くんは真面目に捉えすぎだ。それは長所でもあるけど時には肩の力をぬいてもいいんじゃない?」と、こんな風になんの重圧もない笑顔を向けてくれる。実のところ氷上はその笑顔に何度も励まされていた。飄々とした赤城の笑顔は、その性格よろしくどこかとらえどころがなかったが、けれどもいつだって何よりも誰よりも寄り添ってくれているように思えるのだ。だから今も「そんなものなのか」と納得してしまいそうだった。

 恋愛というのはそう難しいことではないのだろうか。もしや事実は昔の自分が思っていたままなのだろうか。何をしなくてもいつの間にか恋人が出来て恋愛をして結婚をしてと、とんとん拍子に行くものだろうか。それはきっと自分にとって良いことだ。思っていたとおりだというのならば。しかしどうしてこんなにも虚しいのだろうか。
 ぽっかりと胸に穴が開いたような虚無感を、氷上は抱いていた。めがねが汚れているのだろうか、赤城の顔が少しだけぼやけている気がしてならず目をこらすと、レンズの奥の赤城が困ったように笑ったようだった。
「氷上くんは真面目だから」
 ふっと笑うその顔に氷上は更に虚しくなる。けれどもなぜなのか、それを氷上はまだ知らなかった。



恋せよ少年(110523)