大人と小人


 益田は大人である、と氷上は思う。それは自分がずっと信じていた「すばらしい大人」とは少しだけ違っていたが、氷上にとって益田義人という人間は大人だった。といってもそう思っている氷上自身もすでに子どもというわけではない。ついこの間の話であるが、氷上は成人したのだ。
 成人した――つまり十九才の誕生日から一年経って二十になっただけで本当の意味で大人に成れたのかどうかという小難しく、時に屁理屈にまみれたことをさておけば、法律上、大人であることは確かで、氷上はここ最近その事実に少しだけ浮かれていた。そして同時に、自分が自分の追い求める大人像からほど遠いことを自覚し、情けなくもなっていた。そんなしょぼくれた、まるで梅雨時の長雨のように湿った気持ちのままぶらりぶらりと歩いていれば、自然に足が向いたのはCANTALOUPEだった。

 さらりと晴れた日だというのに、まるで憂鬱そうな顔でドアを開いた氷上を店主である益田は快く迎え入れた。開店前の忙しい時間であろうに嫌な顔をせずに「やあいらっしゃい」と出会ったころから変わらない柔らかで、しかしとらえどころもない笑顔を向けられて、氷上の感情には更に影が差した。
 元気にやってる? 天気がいいね。最近どう? などとお決まりの文句をするすると口から紡ぐ益田に、氷上はぎこちなく答える。すでに定位置となったカウンターの一席に座れば、自然に目の前に置かれるのはフレッシュジュースだった。開店前なのに申し訳ないと氷上が「すみません」とやはりぎくしゃくとした固い声を落とせば、益田は「召し上がれ」とほんのりと香るような笑みと少しだけ軽い口調の言葉を返す。
 こくりと一口、冷たすぎないジュースを喉に落とし氷上はちらりと益田を盗み見た。氷上の存在を無視するわけでもないが無理やり介入もしてこない穏やかな雰囲気に、やはり益田は大人なのだと思う。
 ずっと、大人というのは自分の従兄のような人物だと信じてきた。今でもそうなのだとは思う。憧れの従兄は、彼は彼で大人なのかもしれないが、益田はもっともっと大人のような気がするのだ。それはバーのマスターという職業柄そうなのかもしれないし、益田の個性なのかもしれない。
 淋しさを感じさせるほどの大人、それが氷上にとっての益田だった。あたたかな人だとはわかるのにその体温を感じさせない人、非常に友好的で親しみやすいというのにどこか距離感のある人、それが益田だ。それを悔しいと思い始めたのはもう随分前で、そのことはすでに益田に告げてある。けれども益田はその時も笑って、落ち着いた声で言ったのだ、「煩わしくなって初めて、淋しいぐらいの距離が心地良かったと思うこともあるもんだよ」と。それがどういうことか氷上にはまだわからない。煩わしいほどの体温など彼から感じたことはないのだ。
「益田さん」
 結局、自分は親友の従弟というだけの存在だ。たまたま人生に迷っていたから道しるべを教えてくれた。それも親友の従弟という特典があってのことだろう。あくまでもそれだけの存在で、何も特別では無い。自分が成人したからといってきっとそれは変わらない。
「なんだい? あ、おかわり?」
 変わらない柔和な笑顔が、大好きなその顔が今は少しだけ憎い。何だってそんなに大人なんだと泣いてぐずってしまいたい。
「僕、成人したんです」
「ああ知ってるよ。誕生日の記念に零一とここに来てくれたよね。格くんも大きくなったなあなんてしみじみ感じ入っちゃったよ」
 朗らかな会話に意味はない。どこを探しても何にも見当たらない。いつだってそうだ。彼の与えてくれるものは心地がよくて、心地がよすぎて、まるで空洞なのだ。でもその先を見てみたい。そこから先にあるものがどんなに痛々しい現実でも汚らしい感情でもいい。恋はそんなにきれいなものではないのだと友人は言っていた。それならそれでいいのだ。だから。
「これからは開店後にも伺っていいですか」
 少しだけ踏み込ませて欲しい。あなたは絶対にその線を越えてこないだろうから、はしたないかもしれないけれど少しだけ、あなたの方へ進んでもいいだろうか。
 だめだという拒絶の言葉が怖くて震えそうになりながら、氷上はぬるくなったジュースの入ったグラスを握りしめた。
 益田が氷上を今日のように開店前の店に招き入れるようになったのはもうかれこれ二年ほど前のことだ。高校最後の年の初冬、従兄である氷室に息抜きだと連れてこられたその後からのことだ。陶酔と憧憬と恋慕をもつれさせた氷上の感情の糸を、丁寧にほぐしながら益田は氷上に言ったのだ。開店二時間前までならいつでも遊びにおいでと。それから氷上は頻繁に足を運ぶようになった。けれどもたとえどんなことがあっても、開店後はお酒の出る店だから一人で来てはいけないと言われていた。それを氷上が破ったのは今までに一度だけだ。だが成人した今となれば話は別だ。酒の飲める年令なのだから大手を振って足を踏み入れられる。けれどもわざわざ許可を求めた理由を、聡い益田が気がつかぬわけはない。いや、誰は理解できなくとも益田だけは知っていてしかるべきなのだ。
「当然! お客様は大歓迎だ」
 その言葉は、氷上の跳ね上がる鼓動と小さな小さな振動を止めるに十分だった。
 大人というのはいつだってこんな風なのだろう。大人は撫でるように人を殺す。穏やかな吐息の中に棘を潜ませる。そして益田は、大人なのだ。
 虚像を追って時間を無駄にしてはいけないとは益田が氷上に向けて言った言葉だった。今、氷上はそれを、それを言った益田の声を思い出し透明なグラスにため息を預けた。
 虚像を追っているつもりなどないが、それでもこの人は否定する。
 声を出して泣けたらどれだけいいだろう。グラスを放り投げて声を上げられたらどれだけ救われるだろう。もう一度感情を吐きつけられればどれほどに楽になれるだろう。けれどももうそれはできない。自分は大人にならなくてはならないのだから。どんなときだって、物柔らかに笑い、座ってなければならないのだ。

「よかったです」

 精一杯だった。それが氷上の、精一杯だった。短い一言だけしか言えなかった。長い言葉を紡げば、きっと声は情けなく震えてしまうだろうことを氷上は自覚していた。だからただ一言を、独り言のように、しかし前に押し出す努力をしながらどうにか音にして、氷上は笑ってみせた。切なさに、身が切れそうだった。
「でもね、俺はこの時間の方がオススメだ」
 ぽんと頭に手が置かれる感触に、氷上は長い睫毛を揺らしながら瞬きをひとつ、その手の主を見る。カウンターの向こう側、益田はぱちくりと音がしそうなほど見事な瞬きをした氷上に、人好きのする笑顔で笑いかけた。
「この時間の方が二人でゆっくりおしゃべりできるからね」
 同情かもしれない。いや、社交辞令かもしれない。だが、もう何だってよかった。益田は大人だからきれいに整えた嘘を会話に混ぜることに長けている。けれどもそれでもよかった。氷上はただ嬉しかった。
 どんよりと沈んでいた空に光が差したように、重苦しい雲が割れて青い空が顔を覗かせたときのように、氷上は清々しくそして軽い気持ちになっていた。
「そうかもしれません」
 はにかんだ声がカウンターを跳ねる。そんなつもりはないのであろうが、氷上の声は恥じらいを含んで、そしてそれは鮮やかに氷上を、氷上のいつもは涼やかに凛とした細い声を、彩っていた。
 同時に浮かべられた笑顔はきっと氷上の求める「大人」な顔ではない。素直に感情の表れた表情は子どもらしく喜びにとろけ、白い頬には薄い朱がさす。そんな自身の顔を、氷上は知らない。ただこみ上げる感情のままに、それに捕らわれている氷上は、自身の隠しようもない喜びにあふれた表情も、そしてそれに返された益田の笑顔に微かな安堵が織り交ぜられていたことも知らなかった。



ずるいのはおめーだ(110425)