嘘の真実、真実の嘘


 赤城一雪、二十一才、大学生、男。これまでにこれといって大きなトラブルを対人関係の中に持たなかったその男は今悩んでいた。

 自らの性格の悪さなど人に言われるまでもなく自覚していたがために順風満帆だった自分の人生をそっと思い起こしてみる。一度、二度躓きそうになった事はあるにしてもそれらは本当に些細な事だった。自分は小石につまづいたところで額を擦りむくほど転んだりはしないタイプなのだ。
 赤城は、過去二度だけ起きたトラブルと呼べる類の出来事を思い出す。しみじみと、黄ばみかかったページを捲るまでもなく、その相手が氷上格、つまり今現在自分を悩ませている人間とすっかり同じ人物である事は明白だった。
 どうして君はこうまでもイレギュラーなのかと、脳裏で照れくさそうに笑う氷上に問いかけても答えは与えられない。
 氷上格、二十一才、大学生、男。猪突猛進実直素直な彼はただただ笑うばかりである。
 まっすぐであるがゆえに、いつだって周りの人間と上手くやれずにいた氷上を手なづけて手綱を握ったのは高校時代のことだ。それからは自分でもうまくコントロールしてきたと思う。単純であるが難解を地で行く氷上に苦労させられたことがないといえば嘘だが、もともとの器用な質が幸いして、氷上を悲しませることも怒らせることも、本当の意味ではなかったはずだ。だからこそ今、赤城は戸惑っている。つまるところ赤城は氷上を怒らせ、泣かせてしまったのである。

 きっかけは些細な事だった。けれど釣り上げられたものは非常に大きなもので、それはそれで赤城がずっとずっと待ち望んでいたものではあったのだが、赤城は見誤っていた。水揚げされたものは赤城の想像よりも更に巨大で煮えたぎったものだったのだ。
 いつ、どこで、間違ったのか。見誤ったのか。
 甲高い「ユキー」と呼んだその声に氷上との会話を中断し、その女の元へと行った。いつものことだ。氷上の、嫉妬に燃えながらも嫉妬をしてはいけないないのだと必死に自身を押さえ込むその顔が見たくてやったことだ。透明な、冷徹さすら感じさせる眼鏡の裏側で、ちりちりと緑に燃える金色の瞳が好きだったから、やったのだ。もちろん調子に乗りすぎれば氷上が噴火してしまうことは知っていた。だれよりもそのタイミングは赤城が知っていたはずだ。はずだったのだ。
 まずここですでに見誤った。まだその時ではないと思っていた。まだ氷上が自分達の間に入ってくることはないと思っていた。だから本当に本当に驚愕したのだ。下らない話をぺちゃくちゃと吐きつけるクラスメイトとの間に「失礼」と氷上が割り込んできたときには。


「少し彼をお借りする」
 氷上はそう言って唖然とする女生徒を一瞥すらせずに赤城の手を引いた。赤城はひ弱ながらも毅然とした力で自分を動かす氷上のうなじをぼんやりと瞳に映しながら、「えー、ちょっとぉ」と叫ぶ女の声を聴いていた。何が起きているのかさっぱりわからなかった。
 そのまま連れてこられた先は滅多に人の来ない、来年改築予定、今は使われていない建物の裏側だった。こんな人気のないスポットよく知っていたものだなどと感心するのもつかの間、赤城はぎろりと自身を睨む瞳に少しだけ背を伸した。
「君は、僕の恋人だろう」
 この言葉を耳にしたとき、赤城は一瞬自分の耳と頭を疑った。好きだとか恋人であるとか、そういった言葉を氷上は上手く口に乗せることができないはずの人間だ。「僕たち恋人だろう?」などと赤城がいえば顔をまっ赤に染めて「そそそそ、それは、それはそうだけれど」と大抵どもった言葉でかえしてくるのが常だった。そんな彼が今は強い光を瞳から放ったまま、白い頬を染めもせずに言ったのだ。
 つり上がった眉が怒りを表していることはわかる。意志の強い金色に宿った感情も穏やかなものではない。冷静な、けれどもただ一つの不正も許さぬといったその目は、かつて赤城が苦手としていた恩師によく似ていた。けれどもその朴念仁を絵に描いた男よりずっと魅力的に映るのは、赤城が心底、氷上格という目の前の人間に惚れているからだ。
 怒られて嬉しいなんてバカみたいだと一人で笑いたくさえなった、その間が命取りだった。
「聞いているのかい? 僕はね、君がどう思っていたとしても、僕は君を恋人だって、そう思っているんだ。だからあんな風に見せつけられるのは正直おもしろくない……僕は、君が好きなんだ」
 それは待ち望んでいた言葉だった。いつその言葉を受け取っても上手く返せるように準備をしていた、そのキーワードを、氷上はついに口にした。けれども赤城は言葉を返せなかった。微かな音すらたてず、ただ目の前で淡々と、けれども感情の入った言葉を紡いでいく氷上を見ていた。
 暖かくなってきた風に揺れる髪を、煩わしそうにおさえる白い手が、能面のように動かない表情に影を映せばまるで泣いているようにも見え、思わず赤城は手を伸ばす。しかしその手は氷上には届かなかった。
「赤城君、どういうつもりか答えてくれないか?」
 赤城の手は、氷上によってやんわりと拒絶された。いつもペンばかりを握っている、すぐに折れてしまいそうなその手は、まるで自然に風に馴染んだ赤城の手を音もなく退けて、また髪を押さえる仕事に戻った。
 赤城は本当にぼんやりとしていた。いつもならばなんなく上手い言葉で氷上を丸め込めていたはずだった。けれどもそれが出来なかった。突然の出来事と、氷上の妙な迫力に押されていたからである。 二つ目に見誤っていたこと。
「僕は君が好きだ。だから中途半端な気持ちで、同情で、僕を構うならやめてほしい」
 氷上は、赤城が思っていたよりずっと赤城を慕っていたのだ。
 もはや赤城は言葉を紡がなければならなくなっていた。そうしなくてはこの場ですべてが失われることは必然だった。だが赤城は微動だにしなかった。赤城は戸惑いと幸福の入り乱れる自己をコントロールできなくなっていた。
 言葉を待つ氷上が目の前にいる。端正な顔に緊張を浮かべた氷上はそこに立っている。春の色に染まった穏やかな、けれどもはりつめた、日陰の中の静寂を割いたのは赤城が氷上に触れようとした手と逆のそれに握っていた携帯だった。着信を知らせる振動が、汗と共に抑え込まれくぐもった鳴き声をあげれば、その瞬間、氷上は眉を下げて笑った。
「あ」
 と、そう声が出た瞬間には遅かった。ほの暗い陰の下、悲しく笑った氷上の揺れる瞳が液状にとけだす、そのあまりにも緩やかな動きに、赤城は再び言葉を失った。
「すまない。時間をとりすぎたようだね。話の続きはまた」
 涙なく氷上が泣くのはいつぶりだろうかと考えはじめて赤城はそれがはじめてのことであると気がついた。気がついて、泣かせてやりたくなったときには、氷上はふいと顔を横に背けて、細かくなった石を踏んで歩き始めていた。
 赤城一雪、人生初の大失態である。


 見上げた先に灯る明かりを、いとおしい以外の感情と共に見上げる日が来るとは思ってもいなかった。今、自分は怯えている。暖かに灯る光に膝を震わせている。
 怖いのは、策略した通りに進んだ氷上との関係に終止符が打たれること、それからみっともない自分が暴かれることだ。臆病だと誰かに笑ってもらいたかったが、誰が自分を笑ってくれるだろうか。こんなにも無様な自分を、誰が。
 一体全体どういうつもりなのか、と氷上は問うた。答えはひとつだ。単純明解なものだ。
 嫉妬してほしかった。
 それだけなのだ。嫉妬する氷上の顔が好きだった。自分が氷上のもとへ戻ったときに見せる安堵の表情が好きだった。だがそれよりなによりも、ただ、嫉妬してほしかった。どこかで思っていたからだ。氷上が自分を好きである気持ちより、自分が氷上を好きな気持ちの方が何倍も強いと。だから氷上が嫉妬する姿に安心していた。あああんな風に人を睨むのは自分だけではないのだと。そして自分のためだけであると。
 こんな感情をどうして氷上に言えるだろうか。あんなにもまっすぐに自分を見つめてくれ、飾り気のない、だからこそひどく心に響く言葉をくれた氷上に、何をどう伝えるべきかわからないのだ。
 のろのろと歩を進め、ようやくたどり着いた玄関の鍵穴に鍵を刺す。普段と変わらぬ夜であれば、鍵を刺して捻るそれすら面倒だと思っていたであろうに、今日はこの鍵が開かなければ良いとさえ思う。万が一開いてしまったとしても、その先にある暖かな部屋に、氷上がいなければいいと。
 けれどもそんな仄暗い感情に溺れた赤城を迎え入れたのは、赤城が想像していたよりもずっとやかましいものだった。どたどたと鳴る足音が響いたかと思えば次の瞬間、赤城が鍵を捻るより先に、施錠されていたはずの扉は内側から開いた。
 何が起きたのだろうと、妙に冷え切った頭が疑問を提示するが、上手く動かない思考は答えを与えなかった。ただ目の前の現実だけが赤城のすべてだった。目の前で必死な顔をしている自分の恋人だけが、今の赤城にとって判断できる現実なのだ。
「ひか」
「帰って、こないかと思った」
 氷上と呼び終わるより先に、息と共に落とされた言葉は弱々しかったが、赤城はその言葉に肩を震わせた。いつもの赤城ならば、狼狽する氷上の姿から氷上の思考をすべて読んでしまっていただろう。だが赤城にはそんな余裕はなかった。
「心配していたんだ……」
 時計の針はおそらく十二時を回っているだろうが、大学生にとっては遅すぎる時間ではない。ましてや赤城は男なのだ。けれども赤城は、今まで連絡なしにいわゆる午前様をしたことはなかった。もし何かあるときは必ず電話をいれたし、それは頻繁に起こることではなかった。
 赤城は常に努力をしているのだ。氷上と過ごす時間が少しでも長くなるように、そのために赤城は飲み会の席でどれだけ文句を言われようが女の子に泣かれようが中座することを辞さなかったし、加入するサークルだって慎重に吟味したのだ。だから氷上は赤城を待つことに慣れていない。
 赤城は、そんな氷上を一人にしてしまったことに気がつき、ようやくはっきりと自分の瞳に氷上を映した。眉間に皺を寄せるその顔は、他人が見たら怒っていると思われるかもしれない。だが赤城は知っている。氷上は泣きそうなときにこんな顔をするのだ。
「僕が、昼間あんなことを言ったから、言ってしまったから、怒ってしまったのかと……だから、帰ってこないんじゃないかと」
「ごめん」
 淋しくさせて、待たせて、馬鹿なことをして。
 今にも眼鏡の奥の瞳から涙を流してしまいそうな氷上を、赤城はがばりと覆うように抱きしめた。柔らかな薄手のカーディガンに身を包んだ氷上の、いつもの清潔な、けれどもどこか甘やかな匂いに赤城は目を閉じる。
「謝らないでくれ」
 きつく自身を抱きしめる赤城を注意することもなく、氷上はぼそりと謝罪を拒絶する言葉と共に、おそるおそる細い腕を赤城の背に回した。
「謝らなければならないのは僕の方だ。あんなにみっともなく喚いて……」
 ぽそぽそと、いつものはきはきした声からは想像もつかないほどに小さく不明瞭な声が赤城の耳を擽る。きっと頬を紅潮させているのだろう。今にも伝わってきそうな熱をすぐ隣に感じながら、赤城は心臓の音を速くする。
 真実を言わねばならないと緊張していたときとは違う、もっとひりひりとしたしびれるような感覚を晴らすように赤城はするりと氷上の首に指を這わせ、そのまま髪を逆撫でていけば、いきなりのひどく色めきだった動きに氷上はびくりと身体を硬くしたが、髪をいじる指が止まることはなかった。

「……嫉妬した」

 刹那、ぴくりと、赤城の指が跳ねて止まる。嫉妬という感情が氷上にとってどれほど苦しいものかは、詰まった声からも肩に押しつけられた鼻先からもわかる。劣情や嫉妬というものを氷上は未だにすんなりと受け入れられないのだ。恥じるべきものだと思っているのだろう。
(きみのその純粋さがどれほど――)
 恥じるべきは自分だと、わかっている。ならば嫉妬をさせようと企んだ自分こそ悪なのだと今白状してやればいい。そういうつもりでこの家に帰ってきたのだからそうすればいい。だができるものか。こんな風に震える身体を必死に押さえて縋り付く恋人を見て、自分の企みなど口に出来るものか。これを失うにはまだ早いのだ。
(――僕を喜ばせるか、苦しませるか君は知らない。知らなくていい)
 だから今はほんの少しだけ先に言っておくよ。
「ごめん」
「だから謝らないでくれ」
「違うんだ、ごめん」
 いつか氷上に真実を告げる日がくるだろう。ずっと嫉妬させたかったそのためにやっていたと。その時に氷上が怒るのか泣くのか失望するのか、それは赤城にはわからない。恐ろしい未来を想像する趣味は赤城にはない。けれどその日の感情が少しでも柔らかいものになるようにと、赤城は祈るような謝罪を口にする。
 氷上はそんな赤城の真意を知らず、ほっとしたように息を吐きながら顔を上げ、少しだけ困ったように笑う赤城を見つめた。髪で遊んでいた赤城の指が自然に氷上の頬を覆えば、氷上は恥ずかしそうに視線を逸らし「君が、そんな風に甘やかすから……」と悔しそうに呟く。
「それは、格のほうだよ」
 君は知らないだろうけどねという言葉までは言わず、赤城はその言葉を飲み込むために氷上に軽く口づけた。軽い軽いキスでさえ、固くなる身体と必死に閉じられるまぶたが愛おしくてたまらず、再び腕の中に拘束してやろうと目論めば、それが伝わったのか氷上は珍しい素早さで大きく一歩下がって難を逃れた。

「いいや、ゆ、ゆき君のほうだろう!」

 成人男性大股一歩分向こうから投げられた言葉に、赤城は思わずすばやく瞬きをくり返した。今、氷上はたしかに「ゆき君」と言った。いつも女の子達が甲高い声で呼ぶ「ユキ」というあだ名を呼んでみせた。
「格!!」
 赤城が呼ぶが早いか、氷上はまるで小動物のような素早さで自室へと走った。こんな狭い家で完全に逃げることなんて不可能だろうに必死になる氷上を、赤城は追った。
 バタンと大きな音をたてて閉められた氷上の部屋の扉は、すぐに金属音を立てた。施錠されたことはわかっていたが、赤城は退散せずにぴたりと戸に身を寄せる。
「いたる」
 戸の向こうに動く気配。衣ずれよりも大きな音から察するに、氷上はベッドに潜り込んだようだった。赤城はそんな氷上らしい子供っぽさに思わず声を出して笑った。

 いっぱい嘘をついている。いっぱい傷つけてもいる。それでも君はいつだって僕を喜ばせてくれるんだね。
 高らかにノックを三つ。もちろん返事はないけれど。

「いたる、愛してるよ」

 愛の告白をうたった赤城の声は、ノックの音よりも痛快に狭い廊下に響いた。



(110411)