引き違って候

 生徒会室は静まり返っていた。時々、ぺらりと紙の捲られる音が響くほかには音らしい音もなく、いつもの喧騒はまるで幻のように思えたが、この場所にも休みは必要なのだろう。
 日曜日、この日だけは普段この場所で生徒会役員という名の雑用係として働く生徒達も、いち高校生として羽を伸ばす。ただ一人、生徒会役員である自分を限りなく誇りに思っている生徒会長氷上格を除いては。

 時計の針が重なりあいながら十二を指してから三十分ばかりすぎたころだった。突然こんこんという繊細な音が氷上だけが存在する空間を揺らした。
 氷上が己の休日を生徒会室で消費するようになってから三ヶ月、誰かが訪ねてくることなどこれまで一度もなかった。突然の訪問者にして初めての訪問者に氷上は少しだけ顔を強ばらせる。
 生徒会の顧問はもちろん、その他の教師も学校自体には来ることはあれどもわざわざ生徒会室まではやってこない。そもそもこのやや奥まった、書類に埋もれた部屋には平日であれども役員以外はそうそう寄り付かないのだ。
 だからと言っていつまでも押し黙っていることができるわけはなく、控えめな声で「はい」と答えれば、微かに不安を孕んだ声がドアに投げ掛けられるがはやいか、がらりと扉が開かれた。

「よう」

 力強く、そしてすばやく開けられたそこに現れたのは、こんがり焼けた肌がいかにスポーツマンであることを主張する男、志波勝己だった。
「し、志波くん?」
「他に誰かに見えるか?」
「い、いや、そういうわけではないけれど」
 練習用のユニフォームのまま現れた志波は、いつもと変わらない固い表情で氷上ととんちなのか本気なのかわからぬやり取りをすると、そのままの無表情で後ろ手に戸を閉め、氷上のテリトリーをいとも簡単に侵した。
「昼飯食ったか?」
 自然な、けれども有無をいわせぬ圧力とともに氷上の隣までやって来た志波がぼそりと低い声で尋ねれば、一瞬のうちに起きた様々な出来事を処理中の氷上は言葉なく首を横に振る。
 その解答に満足したけれども同時に複雑な感情を抱いた志波は「やっぱりな」とため息混じりに言葉を紡いで、手にもっていたビニール袋を戸惑いもなく逆さにする。
 ぼたぼたと遠慮もなく大胆にそこから降って来るのは菓子パンやおにぎり、パックの牛乳だ。
「昼飯」
「は?」
「好きなの選べ」
 スポーツマンは身体が資本だろうなどと言ってやたらと志波の食生活を気にするわりには、自分のことには無頓着な氷上は仕事に夢中になると食事をすることを忘れるタイプである。志波はそのために自分の昼食のついでに氷上の分も買っていたのだ。
「いやしかし」
「……選べ」
 不機嫌、とまではいかないがむっつりとした声で迫る志波に、氷上は狼狽と不可解さを隠すことなく顔に表しながらも恐る恐る食料の山に手を伸ばす。志波の愛する白くほっそりとした指が、まったく気の毒になるほど遠慮がちにシンプルなタマゴサンドを掴んだ。
「ではこれをいただくよ……あの、いくらだろうか」
 食料にあふれかえる机から書類の広がった机へとタマゴサンドを移した氷上が、それではと当然のように鞄の中から財布を捜し当てようとするのを止めたのは、志波の手だった。がっしりと、志波の日に焼けた手が氷上のYシャツに覆われた腕を掴む。そう力が込められているわけではないが、氷上の動きはぴたりととまった。
「いい」
「え?」
「いらねぇ」
「……これはお前のためだけじゃなくて、俺のためでもあるからな」
 だからいらねぇと志波がぼそりと言えば、氷上は眉をぴんと跳ね上げ訝しむ。その些細な、けれどもあまりに正直な表情の変化に志波は唇の端にからかうような笑みを乗せた。
「お前、痩せすぎなんだよ」
「……な、な……い、いや、いや確かに、確かに僕の体重は高校生の平均よりも軽いが、痩せすぎと言われるほどではないよ」
「いいや、痩せすぎだ。まあいい、とにかく食えよ。ほれ」
 そう言いながら志波はいつの間にか包装を剥いたサンドイッチを氷上の口元へと運んだ。何事も白黒はっきりさせておきたがる性分の氷上を黙らせるには食事を与えるに限ることを、志波はすでに学習していた。おもしろいことに氷上は食事中には考え事こそすれど、議論はしないのだ。口を塞いで、あとは適当にごまかすように会話を誘導すれば、氷上格という良くも悪くも実直な男は意外にもすぐに穏やかになる。
「ひとりで食うよりは、お前と一緒のほうがいい」
 今日、志波がこうして生徒会室を訪ねたのは本当に偶然、朝校門をくぐる氷上を見たからだ。そうでなければさすがの志波もこんな風に大量の昼食を用意したりはしない。ただ平日と変わらず凛然とした背中が門をくぐるその姿を一度見てしまえば、切望にも似た渇きは内から内からあふれ出てしまい、どうにかこうにか理由をつけて氷上の温度を側に感じたいと思ったのだ。


 ひとつの食事を越えた後、静寂に支配されつつあった生徒会室に音がかえってきた。それは柔らかで健やかな志波の寝息だった。
 山のようにというと大げさかもしれないが、少なくとも氷上にはそう見えたパンと握り飯の山を志波が崩し終えたところで、部活にもどらなくていいのかと尋ねれば、今日は部活ではなく自主練習でそのメニューも午前中で終えたと返された。オーバーワークはいけないんだろ? トレーナーさんと低い声でからかわれれば氷上はただ顔を赤くして二言三言の小言を返すのが精一杯だった。そしてその流れのままくつくつと喉の奥で笑いながら「ここで休んでいいか?」と問われれば、またもや何の反撃も出来ず、氷上はただ黙って首を縦に振ったのだった。
(けれども、本当に寝てしまうなんて……いやわかってはいたけれど)
 睡眠に対する欲求が人一倍強い志波の休憩が睡眠とイコールであることは氷上とて知っていたことだ。起きていられたところで、仕事をしながら志波と話すことは出来ないのだからこれは一番都合の良い結果なのだろう。それに何よりも、志波のあの鋭い目に射抜かれながら仕事を進める自信はなかった。あの目の強さはあまりに凶暴なのだ。
 同じ男性としての劣等感を刺激されているのかもしれないし、ひ弱で脆弱な自分を突きつけられるようで嫌なのかもしれない。だがそれ以上にあの日本刀のように研ぎ澄まされた目は、劣情を呼び覚ます。それは胸が痒くなるほどのもどかしい感情だ。

「君はきっと、何も知らない」

 ぽそりと、氷上は音にしながらもその音が口の中だけで響き渡るように囁いて、志波の寝顔を眺める。
 一抹の心寂しさと、同じだけの愛しみをのせた氷上の瞳は、黄昏時へと向かう陽にゆらりと揺れて、部屋の中に融けた。



8.生徒会室/学校設備で萌えて悶える10のお題(110207)