裏針裏張り逆針


 震える手を隠して、僕は君に触れる。

 氷上格という男は、ひどくきれいな人物である。愚かなほどに純粋で、白痴を気取るなと言いたくなるほどに無垢な内面はもちろん、シンプルなけれども品の良いメガネの下に隠した顔も実は美しく整っている。高校時代、彼が異性とのおつきあいといったものに縁がなかった原因は、偏に彼の強烈すぎる個性にあったと間違いなく断言できるだろう。それほどに彼の性格は不可思議で、そして味をしめた者にとっては甘美なのだ。
 赤城は、ソファに背を預けたゆったりとした姿勢で雑誌をめくる自分の恋人を眺めた。
 理知的な鋭い目がきらきらと輝いているところから想像するに、読んでいる雑誌は天文関係のものだろう。かわいいなと自然に思う反面、その雑誌にすら嫉妬している自分に気がつき一人で笑う。まったく、氷上とつきあうまでこんな自分は知らなかった。こんなにも素直に嫉妬することができるなんてことを知らなかった。
 誰かとつきあったことがないわけではない。むしろ噂にならない程度にちょこちょこととっかえひっかえ恋愛をしてきた。その中でさえ嫉妬することなどなかった。たとえ噂通り少しだけ軽薄な子が、気を引かせるためなのか習慣なのかはわからないが浮気をしようとも、別に何ともなかったのだ。けれども今はそうはいかない。氷上の視線を独占している紙の束すら憎くて仕方ない。

「氷上」

 はい、コーヒーと、何でもないように装って、マグカップをローテーブルに置き、静かに隣に座る。出会ったときより格段に近くなった距離に腰を下ろせば、氷上の細い腰は少しだけ動き、けれども逃げることはせず「ああ、ありがとう」とはにかんだ笑顔と言葉が共に返された。
「何読んでるの?」
「ああこれかい? これは先日若王子先生からお借りした雑誌で」
 果実のように色づいた唇が他の男の名前を紡ぐ。何でもないように氷上はこうして赤城の心をかき回す。それもそのはずだ。氷上にとってこれは無意識のことであり、ただの一般的な会話だ。ただ赤城にとっては違う。
 時折赤城は考える。もしや氷上は自分を嫉妬させるために「若王子先生」だの「零一兄さん」だのと口にするのではないかと。もちろんのことそれがあり得ないことはわかっている。氷上はそんなことができるほど恋愛ごとに慣れてはいないし、そもそもその言葉がどれだけ赤城をかき立てているかを知らない。だが赤城にとって、彼らの名が氷上の口から紡がれるとき、そう思わなければ狂ってしまうほどの支配欲に焦がされるのだ。
 見て見てと子どもが見せびらかすように氷上によって目の前に広げられた雑誌を赤城はひょいとつかむ。惑星の写真と嫌になるような英語の羅列。きっとこの異国の文字は氷上を楽しませ満足させるのだろうと思うと、この言語を使っている国ごと丸ごと消滅してしまえば良いのにとさえ思う。そんなことは不可能だと知っているからこそ望むくらいはかまわないだろうと、今日も赤城はそんな祈りを捧げつつ渡された雑誌をカップの脇に置いた。
「あ」
「待って、」
 碌に読まれもせずにテーブルへ放置された雑誌に氷上が手を伸ばそうとすれば、赤城はそれを制して氷上の頬に触れる。いつも氷上好みのコーヒーを煎れる器用な指の冷たさに氷上がぴくりと震えれば、赤城はにこりと軽くわらって白い肌に指を這わす。
「睫毛ついてる」
 透明なメガネのレンズを少しだけ押し上げて、赤城は何もついていない氷上の、少しだけ色づき始めた頬を親指でこすった。
 氷上格という誠実が服を着て歩いている人間にとって嘘は許せないものだろうが、赤城にとっては嘘も方便だ。下らない嘘ひとつでこうして氷上の動きを封じ、触れられるのならばそれでいい。嘘などついたところで嘘だとばれなければそれまでなのだから。
「本当かい? すまないな」
 照れたように笑う氷上の顔は年令よりもずっと幼く赤城の瞳に映る。
 ああ、色のないメガネすら邪魔で仕方がない。ただその目に映して欲しい。自分のことだけを考えて欲しい。この願いがどれほど我儘で傲慢なものかを赤城は知っている。けれど止められないのだ。
 ゆっくりと、頬に触れる指を増やす。氷上の体がふるりと震えるのを感じて赤城はとろけるような笑顔を見せた。そのふわりとした甘い笑顔に、氷上はぴたりと動きを止める。赤城が思っているよりもずっと、氷上は赤城の笑顔に弱い。そして赤城が思っているよりもずっと、氷上は赤城を求めている。それを赤城は知らない。だから今、赤城の手は赤城自身にしかわからぬほど小さくではあるが震えていた。
 氷上が意外にもスキンシップの激しい家庭で育ち、まったく自然に人に触れる質であることは、その厄介さも含め赤城はすでに学習している。ただの“友人”であったとき、氷上は赤城がどんな気持ちかも知らずにべたべたとよく接触してきたのだ。けれども一度恋人になったらどうだ。腕に触れるだけで体を硬くする。はじめこそ赤城は、接触の先にある体の関係を忌避しているのではないかと疑ったが、そうではないことは存外にあっさりと受け入れられた肉体関係と、それに対する氷上の情熱にわかっている。氷上はただ、照れくさいのだ。

(かわいい)

 赤城にとって氷上は本当に美しく、そしてかわいらしい生き物だった。だからこそべたべたに甘やかして自分なしでは生きていけないようにしたいのだ。その手始めに、まずは自分との接触に慣れさせて、その次にはそれなしでは耐えられないように仕立て上げたい。何が無くとも、それはかの零一兄さんをなくそうとも自分さえ居ればいいと言うようになるほどに。

「いたる」

 少し欲深いだろうか。けれどもそれは本当に本当に求めて病まないことなのだ。
 赤城はもったりとした音で氷上の名を呼んだ。一つひとつの音に嫌というほど感情を込めて、少しだけかすれた声で囁けば、純情そのものな氷上は耳まで赤く染め上げる。

(かわいい、かわいい、たまらない)

 今すぐ君に噛みつきたい。けれども僕は君が思うよりもずっと臆病だから、まだ噛みつかない。
 そうして僕は震える手を隠してもう一度、君に触れる。



(110123)