DON'T GIVE A DAMN


 鈍感であることは、ひとつの救いである。

 何がどうなってこの現象が日常化してしまったのかはわからないが、いつの間にか避けられないものになっていた現実を前に佐伯瑛はひっそりと息を吐いた。
 一体何がこんなに佐伯を苛んでいるかといえばそれは明白である。目の前にいる一組のカップルの存在、ただそれだけだ。
 赤城一雪と氷上格。高校時代からの付き合いである二人の友人はいわゆるゲイカップルなのだ。別にそれ自体を疎んでいるわけではない。問題は、なぜか毎日自分と恋人、そしてこのカップルの四人で昼食を取る、この習慣にある。
 はじまりがいつからだったか、それは佐伯にもわからない。けれどもいつからかこれが当たり前のように恋人に受け入れられていた。そうなれば反論する余地さえもなく、こうして毎日楽しいけれども油断のできないランチタイムを過ごすのだ。
 そう、佐伯にとって彼女の存在と氷上の存在は大した問題ではない。だが、赤城一雪、この男は未だに佐伯の天敵なのだ。
 仲が悪いというわけではない。取っ組み合いの喧嘩をしたことがあるわけでもない。ただ赤城の人を食ったような性格が佐伯は苦手で仕方ないのだ。いけ好かない、というほどではないが猫が天敵の前で毛を逆立てたくなる、その気持ちを理解しそうになる程度には緊張する。

「あ、そういえば佐伯くんこの間のインタビューどうなったの?」

 ほらまたこれだ。人が触れて欲しくないことばかりを机の上に並べてにやにやと笑う性格の悪い男を睨めば、やだなあという声が聞こえてきそうなほどに大仰に肩をすくめられた。
「インタビューって何のだい?」
 佐伯が「余計なことを言うな」と一睨みして終りにした話題をすくい上げたのは言うまでもなく氷上だった。焼き魚をほぐしていた箸を止め、純真無垢というに相応しい目で赤城を見ている。ああこれだからこの二人と席を共にしたくないのだ。
「いやあ佐伯くんがね、またうちの大学のフリーペーパーにインタビューを頼まれたんだよ。たまたまうちの学科の子が担当だったらしくて、僕からも頼んでくれって言われててね」
「……ふむ、それで佐伯君はもう取材を受けたのかい?」
 赤城の回答に一歩言葉を詰まらせてから頷いた氷上は、眼鏡越しの鋭い視線を今度は佐伯に向けて問いかける。佐伯は、はあ、と大きく息を吐いてから首を横に振った。
「断ったよ。洋服どこで買っただの、好きな食べ物だの、どうでもいいインタビュー受けてるほど暇じゃないからね」
 長年のくせで、氷上を相手にするときには出てくる高校時代と同じ静かな口調で佐伯が言えば、ふむふむと氷上は素直に首を振る。佐伯の理由にもっともだと納得してくれているらしかった。けれどもここまで来ても油断できないのが赤城の存在だ。佐伯はさっと牽制するような視線を赤城におくる。赤城は口元を歪めて、今にも何かを言わんとしていた、その時だった。

「ユキ!!」

 甲高い声が響き、ぴたりと四人の箸は一瞬だけ止まった。けれども誰よりもその「ユキ」という声と、多くの女生徒が気軽に口にする赤城の愛称に気を張り詰めたのは氷上であった。
「あ、ごめんちょっと外すよ」
 ぱたぱたと駆け寄ってくるその人物に赤城はほんの少し眉を寄せると、ぽんと氷上の腕を叩いて席を立った。これも時々あることだった。赤城は絶対に氷上と自分に声をかけてくる女を同じ空間に居させないのだ。始めこそ氷上に気を遣っているのかと思ったが、それが違う理由から来ていることを彼女に教えて貰って以来、佐伯は氷上が気の毒でならなかった。


「氷上くん、そんなに落ち込まなくても」
 慰めの声が佐伯の隣から氷上に投げられたが、氷上は「ああ大丈夫だよ」ととてもじゃないが信用できないほど重いトーンで呟きかえすだけだった。
 こんなとき佐伯はまったく赤城がわからなくなる。確かに赤城は見ていて恥ずかしくなるほどに氷上を溺愛しているというのに、こんな風に試すように氷上の気持ちをわざと揺るがすの。
 氷上は決して嫉妬深いタイプではない。どちらかと言えば色恋沙汰に鈍感で、はじめは赤城に近づく女に警戒する、そんな感情自体を知らなかったほどだ。
 けれども毎日のように「ユキ」と親しそうに呼ぶ相手と赤城が、たとえそれがどんなに短時間ですむ話であっても隠れるように振る舞うようになってから、氷上は「ユキ」と呼ぶ誰かが赤城に近づくことを恐れ始めるようになった。その結果なにかをするということはなかったが、ひたすらに細い体で不快さと居心地の悪さに耐える様は、傍目から見ても痛々しい。
 なぜ赤城がそう振る舞うのか。正しいか正しくないかその確証はとれないが佐伯は「赤城君はね、氷上君をやきもきさせてくて仕方ないんだよ」という彼女の推理を信じている。
 つまるところ赤城は氷上の思考まで独占したいのだ。喜びも悲しみも醜い嫉妬も、すべて自分で氷上に与えたいと思っているのだ。佐伯はそう信じている。そう信じられるほどに、佐伯は赤城一雪という男の病的な氷上への執着を知っているのだ。
「でも、もしかしたら赤城君は女の子といたほうが楽しいのかもしれないな」
 ぽそりと言葉が紡がれる。あきらめを孕んだその声は、ぱさぱさに乾いていて力を失っていたが、佐伯たちを驚かせるのには十分であった。
 二人は、赤城がどれほど氷上の感情に波風を立てようとも、人を疑うことを知らない実直で素直な、悪く言えば愚直な氷上が赤城の愛を疑うとは思ってもいなかったのだ。
 確かに彼らには障害は多い。けれども多くの悩みについては、つきあうと決めたときに大方消化したのだとは氷上の弁であったはずだ。だからこそ二人は氷上がこんな風に弱気になることなんてありはしないと思っていた。いや氷上がどうであれ、赤城の愛情の異常な重さから、そんな感情を持つことは不可能だとさえ思っていたのだ。
 氷上は知らないのだろうか。赤城が氷上を呼ぶ声が他の声よりも格段に柔らかいことにさえ、もしかして気がついていないのだろうか。
 たとえ議論をして声を尖らせていても、赤城は「氷上」と呼ぶとき、その声を丸くする。ひどくなめらかで優しい音で三つの音を紡ぐ。それはこちらが恥ずかしくなるほどに明確に違うのだ。
 だから絶対にありえない。
「それはないだろ」
 女といるほうが楽しいだなんて、そんなことは絶対にない。この事実が覆される可能性と比べれば、赤城の性格が改善する可能性の方がまだ高いくらいだと佐伯はぼそりと呟きつつ氷上を慰める。そうして同時に非難の目を、少し離れた場所で女と話す赤城に向けた。


「ごめんごめん」
 何も無かったかのように――氷上以外の人間とのコミュニケーションに極力時間を割きたくないと豪語している赤城にとって、せっかくの昼食を名前程度しか知らぬ人間に邪魔をされたことは不愉快極まりないことだっただろうに、涼しそうな顔で戻ってきた赤城は、謝罪の言葉を口にしながら去っていった時と同じように氷上に軽く触れた。
 氷上を自分との接触に慣らすのだと努力しているらしいその手つきはひどく柔らかいものだ。不幸なことに氷上はそれにすら気がつかない。赤城が決して気軽に人に触れるタイプではないということに、自分だけが特別であることに、氷上が気がつくのはいつなのだろうか。そして、赤城は知っているのだろうか。氷上が戸惑い以上の感情を持って赤城と女の逢瀬を耐えていることを。
 きっといつか爆発するに違いない。少しづつ傷ついている氷上の箍が外れたときにはきっと、赤城は厳しく叱られるだろう。赤城が苦手だと、唯一眉間に皺を寄せる氷上の従兄弟とそっくりな声で、赤城は氷上に叱られるのだ。
 昼食を共にする友人として、こういうことがあったから気をつけろと佐伯は忠告してやることができる。だが佐伯は絶対にそれをしないであろう自分を知っていた。
 当然だ。これ以上巻き込まれてたまるものかと思って何が悪いというのだろう。氷上には少し悪いがそれも仕方ない。選んだ相手が悪かったのだ。それにどうせ何があってもこの二人は乗り越えて行くであろう。
 その限りなく確信に近い予想を胸に、佐伯は目の前で再び談笑し始めた二人を瞳だけで見つめ「ごちそうさま」と囁いた。



被害者:佐伯瑛(三度目)(110122)