繋縛


 子どものような声が聞く「痛いの?」と。
 心配しているかのような、けれども決して怖がってはいない明るい声を紡いだ口は音を落としたかと思うと返事も待たずに目の前にある赤黒い傷口を舐めた。
「ッ!……マサル、痛い、しみる」
 切れた唇の端をべろりと舐められた高田は、ちりっと奔った痛みに勝の肩を押す。だがそれで怯む勝ではない。高田の細い手首をぐっと掴んで自身の胸へと乱暴に引き寄せる。
「痛いってば」
 乱暴な扱いに、至る所を痛めつけられた体が悲鳴をあげようとも高田の口から出るのは冷静な言葉だった。いつもと違うところといえば、腫れ上がった頬のせいか、切れた口内のせいか、おそらくその両方が相まってだろうが少しだけくぐもった声になってしまっているということだけだ。あとは常日頃と何も変わらず、言葉は冷えていて、そして整った顔も赤や青に彩られてはいたが同じように冷静だった。
 いつも通りといえばいつも通りのそれがではあったが、勝にとっては面白いものではなかった。なんだって高田はこんなにも冷静なのかと思う。高田の淡泊な素っ気なさは確かに心地いいものではあるのだが、時にこうまで淋しいものなのだ。
「色白いからすっげー痛そうに見えるっすね」
「痛そうじゃなくて痛いんだって」
「痣も、こんなにきれーに浮かんじゃって」
 たくし上げたTシャツの下、腹に浮かんだ大きな痣を勝の手のひらはぐっと押した。高田の口から鋭い息が漏れる。その音に勝は小さく笑んだ。切なさすら感じられるこの息づかいが勝はたまらなく好きなのだ。情事の時もそうだが、高田のこの苦しそうな息は何よりも勝を興奮させる。
「かわいそ」
 ぽつりと言葉が落ちる。感情の抜け落ちた呟きは誰にも拾われずにフローリングに散っていく。そう思うならばもう眠らせて欲しいと、高田は心底思ったがそんなことを言ったとところで目の前で痣をなで始めた子どもには通じないことはわかっていた。
「高田さんの大切な商売道具なのにね」
 嘲りを含んだ言葉を口に乗せながら勝は高田の淀んだ瞳に自分を映す。黒い瞳に笑いかければ溜息が返される。それでも高田は決して勝を拒まない。それを勝は知っている。甘いのだ。女に対しても自分に対しても。この人はとことん甘ちゃんで、だからこうしてぼろ雑巾のような姿になるのだ。
「カッコイー顔も、こーんなんなっちゃって、社長もひでーっすね」
 腹を撫でていた手が顔に移され、するりと頬を撫でる。そうかと思えば不器用そうな指が青く腫れ始めた目尻を撫でて、それと共に饒舌な舌がぷっくりと腫れた唇をべろりと舐める。
「もう寝たいんだけど」
 ついばむようなキスと犬のようにしつこく舐めあげる舌に解放された一瞬の隙間に高田が急いで言葉を落とせば、勝はにっこりと、それは客をだますときのようにあどけなく、しかしとてつもなくいやらしく笑って見せた。
「ムリっすよ。高田さんしらねーかもしんないっすけど、こんなやられてるとめちゃくちゃ熱でて寝るどころじゃないっすよ、マジで」
 夜中中ヒーヒー言わなくちゃと追い打ちをかけるように勝の笑みを含んだ声が言う。高田は嬉しそうな勝の声と顔に短い悪態を一つ、それでも寝るから退けと言う。
「だーかーら、ムリっすよ」
「今からマサルがしよーとしてることのほうがムリ」
 さりげなく下半身をまさぐるもう一つの手が何を求めているか、それを知らぬの一言で押し通せるほど高田の面の皮は厚くない。わかりにくくはあるがいつだって正直な高田の言葉は今日も嘘がない。人を拒絶するときも受け入れるときも高田は嘘をつかない、否、つけないのだ。これでよくもまあホストが勤まっていたものだと感心するが、だからこそこんなにも駆り立てられるのだろう。
「熱は発散させないと」
「ほんと、今日はムリ。死ぬ」
 これ以上体をいたぶられれば本当に死ぬと嘆く――と言っても実に感情なく死ぬと訴えただけだが――高田に勝は舌なめずりをした。
 本当にどこまでこの人は自分を捕らえるのだろう。死ぬ、などと言われれば試してみたくなってしまう。殴られただけでもこんなに痛々しいのだ。きっと死ぬ間際のこの人は壮絶に美しいに決っている。それにこの人は死んだりしないだろう。善人気取りの傍観者ほどしぶといものはいないのだから。
「だいじょぶっすよ、オレ、やさしーから」
「うそじゃん」
 勝のセックスがやさしいのやの字もないことを高田はその体をもって知っている。何度してみてもがっついた、初めてセックスをする中学生のように焦っていて乱暴で力任せで自分勝手なその行為は高田の体に負担をかけこそすれ癒すことなどはないのである。
「痛いんでしょ? だからオレが気持ちよくしますって。きもちくなれば痛いのも忘れちゃうでしょ?」
 俺が忘れさせてやるなんて陳腐な言葉を、少しかっこつけて言う勝に高田は思わず笑った。これはやはり子どもだ。傲慢で不遜な子どもだ。
「なに、笑ってンすか?」
「えーマサルがわがまますぎておかしいなって」
「え、オレわがまま言いました?」
「えー自覚ないのー」
 自覚などないことを承知で高田はそう言ってもう一度笑う。ふてくされながらも胸をまさぐり、時折痣を押す手はもう止まることはないだろう。
「痛いっすか?」
 正直言えばのしかかられるだけで痛いのだが、そんなことは今さらで高田はただ一言「痛いよ」とだけ返す。
「ぼろぼろっすね」
 鬱血だらけの高田の上半身を勝が笑う。けれどその目はぎらぎらと光っていた。まるでそれは獲物を狙う豹のようであり、復讐を誓う狼のようでもあった。
 高田の痛ましい体に欲情すると同時に勝はこの高田を作り上げた丑嶋が気にくわなくて仕方がなかった。確かに高田を痛めつけるように仕向けたのは自分だがそれでもどうしても気にくわない。高田を痛めつけるのも苦しめるのも自分でなければいけない。それは高田に愛され慈しまれるのが自分だけでなければいけないように。
「オレが慰めてあげますよ」
 だからオレが全部消し去ってやろう。痛みの上に痛みを、そしてとてつもない快楽を。
 勝はそう自分の意思を固めると、赤黒い傷跡に歯を立てた。



リハビリ(100524)