あなたが私にくれたもの


 その柔らかな微笑みを与えたのは誰か。

 氷室零一はテーブルをはさんで自分の前に座る、歳の離れた従弟の顔をじっと見つめていた。と言ってもあまりまじまじと見つめては過敏なこの従弟、氷上格に「どうかしたの?」と問われてしまうことは情けないが経験上知っていたので、時に視線をコーヒーカップや時計など適当なところに外す。
「――それでね、僕があんなにも苦労したにもかかわらず赤城くんは一回でパスしてしまったんだよ。彼は本当に器用で……」
 先ほどから延々と語られているのは最近氷上が通い始めた教習所の話だ。最近は高校時代からの友人で今は同じ大学の赤城と一緒に通っているらしいのだが、正直なところ氷室にはこれがおもしろくなかった。
 わかり合える友人がいないと悩む氷上のため、さりげなく赤城を氷上に接触させたのは他でもない氷室である。天体の話ができる友人なんていないと落とした従弟の声があまりにも弱々しく、それが居たたまれずにやったことだ。
 その作戦が功を奏し、それはもちろん赤城のコミュニケーション能力の高さも手伝ってではあるが、孤独だと泣いた従弟は親友と呼ぶにも相応しい友人を得た。いい結果である。確かにいい結果ではあるが氷室は氷上が柔らかな笑みを描きながら「赤城くんがね」と言う度に言いようのない苦しさを胸に覚えるのだ。
 胸が詰まるような、心臓を握られたような不快な痛み。これがどんな類の痛みであるかを知らぬほど、氷室はもう若くはなかった。自分の感情をごまかすようにコーヒーカップを揺らせば、ゆらりと黒い液体はカップの中で揺れる。

 氷室にとって氷上は何よりも愛おしい存在だった。
 幼いころ、兄弟がいなくて淋しくないかと尋ねられたときにはそんなものいてもいなくてもかわらないと答えていたものだが、氷上が誕生してから氷室はその考えを改めた。
 そう確かに始めは弟のように思っていた。それは本当の弟のように愛おしく思い、成長していく課程で必死に自分を模倣する氷上に頬を緩めた。「本物の兄弟みたいね」と言われることが何よりも嬉しかった。
 けれどもそんな穏やかな感情は、ある少女の一言によって形を変えた。
「せんせぇは、本当に格くんのこと好きですねぇ」
 不思議なことに自分によく懐いていた天真爛漫な女生徒は、何かの拍子にそういってのんびりとした顔で笑った。
 下校時だった。傾いた陽射しがまぶしいなと思っているときだった。連休の予定を尋ねられ、特に予定といった予定はないが従弟が遊びに来るかもしれないと答えれば、そう返された。
 もちろん彼女は何の気なしに言った言葉なのだろう。だかそれは想いを自覚させるには十分すぎたのだ。
 自分によく似た氷上を、弟という以上に愛しているという感情。自分に似すぎてるがゆえにときどき直視することが恐ろしくなることもあれども、何よりも愛おしくてたまらず腕の中に抱きしめてしまいたくなるこの激情は、一度気づいてしまえばもはや止められなかった。
 そうして氷上が高校を卒業したその日、氷室は従弟に告げたのだ。拒絶されることを覚悟した上での告白に氷上が返したのは一筋の涙と静かな頷きだった。あの時の気持ちを、胸にあふれる暖さを、氷室は一生忘れないだろう。
   眼鏡の奥、色素の薄い瞳を涙で揺らした従弟が、口を真一文字に結びながらゆっくりと頷いた瞬間、氷室は自分の中で抑えつけていた感情のすべてに火がついたのを感じた。
 声をもらさない従弟を腕に閉じ込め、その柔らかな髪を乱すようにかき抱いた。「に、にいさん」と呼びかける小さな声を無視し、ひたすらに名前を呼んだ。

 醜態にも似た告白をへて、今ようやくこうして恋人同士として緩やかな時間を過ごせることは氷室にとって至上の喜びだ。
 けれども氷上の口が楽しそうに友人の名を零す度に、氷室は胸を締め付けられる。下らない嫉妬といえばそこまでだが、その嫉妬の裏に潜む不安は確実に氷室を苛立たせていた。
 かつて、従弟の笑顔が見たいがために紹介した少年(しかも自分の教え子である)に嫉妬するなどまったくバカらしいがせずにはいられないのだから仕方がない。
「最近、よく笑うようになったな」
 ひとまず、愚痴とも優秀な親友自慢ともつかぬ氷上の言葉が途切れれば氷室はふっとひとつため息のような笑みと言葉をもらした。
「え?」
 聞き取れなかったのか、聞き取りはしたが理解できなかったのか、氷上は間抜けた声をもらす。けれども氷室は言葉をくり返さず、意外に大きな目を不安げにきょろりきょろりと動かす氷上を見た。
 サイボーグだのなんだのと噂されてる自分がこんなことを気に掛けているのはちゃんちゃらおかしい話だろうが、最近の従弟は柔らかな顔で素直に感情を表現するようになった。昔は、受け持っている生徒たちが見れば「サイボーグ二号」などと不名誉で失礼極まりないあだ名をつけられそうなほど表情が堅かったものだが、何があったのか今は違う。
 豊かというわけではないが、頑なに、それは花など咲かないのではないかと思われていた蕾のように頑なだった表情は徐々にほころびはじめているのだ。
 危険なほどの初々しさに目を奪われると同時、誰がこの蕾の先を濡らして開花を促したのか、それが気になってたまらない。
「赤城はよい友人だな」
「はい、とても」
 お前をそうしたのは赤城のおかげかと、尋ねてしまいたかった。そんな風にお前を笑わせるのは赤城なのかと。だがそんな情けないことを聞けるはずもないのだ。
「赤城とつきあい始めてから、お前はいい顔になった」
 鮮やかで目映い顔で笑い、些細なことで子どものように拗ねてみせるようになった。きっと自分の後を追いかけてきたせいで失った人間らしさを、今赤城の手に助けられて取り戻しているのだろう。
「そんなふうにいわれると照れるな……。でも実は自分でも最近は以前より人と感情のやりとりをすることが上手くなったように思うんだ。前ならばきっと僕は人が笑ったりだとか怒ったりすることをさほど大切なことだと思っていなかった。だから自分から感情をさらけ出すことも上手くできなかったんだと思う」
 嬉しそうにそう言って、はにかんだように笑う氷上を氷室は鈍色に陰った目に映す。
 与えるべきものを与えることができず、けれども離すこともできない。きっとこの従弟にとって自分は邪魔でしかない。自分の後ろをついて歩かせなければ、自分に似ることなどなく、きっと今よりもずっと早くからこんな風に笑っていたに違いないのだ。それをわかって尚、離せない。
「あ、でも兄さん、僕が変わったのだとしたら一番は兄さんのおかげだと思うよ」
 無邪気な声が言った言葉に、そんなわけないだろうと氷室が反論を口にするより先、氷上は「だって僕に一番多くの感情をくれるのは兄さんだから」とそれはそれは美しく笑いながら言った。
 細められる目が描く線は柔らかい。照れくさそうにすくめられた首、口にのせられた笑みは微かだけれどもはっきりと笑みをかく。うっすらと色づいた目尻と頬に、かっと氷室は同じ温度を感じた。
「はは、なんだか恥ずかしいな。でも、本当のことだから」
 兄さんが受け入れてくれるから僕は素直になれるんだよと徐々に言葉を小さくしながら氷上が言う。
 氷室はなぜいま自分たちの間にテーブルのがあるのか、その現実に苛立った。今すぐ氷上を抱きしめて、色づいた目尻に唇を押し当てたかった。
 昔の自分ならばこんな風に思うことはなかっただろう。弟のように思っている従弟に、いやもしかしたら恋人にだってこんなことはしなかったかもしれない。ただ、今はこの氷上格という人間に突き動かされ、本能的に欲しいと思うのだ。
「私がお前に?」
 その柔らかな笑みを与えているのだろうか。お前が私を変えたように、お前も私によって変えられているのだろうか。
 震える声で紡がれたのは氷室らしからぬ曖昧な問だった。だが氷上はゆっくりとはっきりと、その問に頷きを返した。

それはまるであの日のように。



乙女一族(100207)