てをわかつ


「志波君?」
 じいっと見つめられた手が熱くて、彼の静かな視線が怖くて、それを知られたくなくて、だから努めて冷静に彼の名を呼ぶと彼のがっしりとした肩が少しだけ揺れた。けれどもその視線はやはり僕の手に落とされたままだった。最近、ふと気がつくと彼の鋭い眼が僕を見ているので、何か気に障る事でもあるのかもしれないと、以前それを訊ねたら何もないと返された。同じ質問をするのも失礼な気がしてそれ以来この視線については触れないようにしてきたのだが、気になっていないというわけでない。むしろ視線によって生まれる熱はどんどん大きくなって僕を苛むのだ。
 ああどうしたらと心の中で叫んだのと、硬い手、まるでそれは砦のような手に包まれたのは同時だった。

「あ……あ、」

 喉から押し出される音は言葉にならない。漏れだす音は情けなく震えている。彼の手はその震えを止めるようにぎゅっと力を強くする。何が起きているのだろうか。考えようとしても目の前も頭の中も真っ白にショートしてしまって上手くいかない。ただわかるのはそこに熱があるということだけ、そしてそれが二つあるということだけだ。
「し……あの、し、志波くん」
 ようやくの思いで彼の名を呼ぶ。無理にでもそうしなければ自分の手が何に包まれているのかをわからずに、この渦巻いた混乱に溺れそうだった。熱が一層高まったのは彼の手に更に力が込められたからだろうか。もう、やけおちてしまいそうだった。
「は、離して、くれないか」
 お願いだから早く離してほしかった。そうでなければこの熱で全身をやかれてしまいそうなのだ。けれども潜めた声での懇願は届かなかったのか手から力は抜かれなかった。どうしたらいいのかわからずに、がむしゃらに彼の手に包まれた自分の手を動かせど、悲しいかな非力な反抗は岩のような手にはまったく効かず、力は虚しく吸いこまれていく。
 心臓の鼓動が痛いほどに鳴る。どんどんと誰かに内から叩かれているような鼓動の強さに、かるく嘔吐く。涙が出そうなのは、強い手に押さえつけられて初めて知った自分の手の気の毒なほどの柔らかさを情けなく思うからだろうか、それとも激しい心臓からの響きのせいだろうか。はたまた、溢れだしてくる名も知らぬ底知れぬ、感情のせいだろうか。
「氷上」
 かすれた声にぎくりと体が揺れる。足の指が痛い気がして一度だけ動かす。まるで凍傷になったかのように感覚がなかった。ただ、熱いのだ。誰かどうにかしてほしいと思う。欲を言えば助けてほしいと。
 自分の手を握る彼の日に焼けた手を見る。見たくはないのに視線が外せなかった。それは彼も同じなのか、じんわりと熱いあの視線が自分の手を、おかしい話だが、彼の手に包まれた僕の手を熱烈な視線が刺している。こみ上げる熱はまるではしたない類のもののような気がして、恥ずかしかった。このはしたない熱が彼に伝わっているのかと思うと絶望で死にそうだった。涙もなく、ただ白くなって死んでしまいそうだった。

「い……いやだ」

 こわい、かなしい、なさけない、はずかしい、おそろしい、あつい、さむい、くるしい、くるしい、くるしい。
 何もかもが混ざりすぎてわけのわからないものに変化を遂げた感情に、息が詰まる。
 ふっと手が軽くなると同時に、喉の奥のつかえがとれたように正常な呼吸が戻る。頭の中に色が戻る。誰かの声が聞こえて自分の耳が塞がっていたことを知る。そして、異様にからっぽになった自分を知って縋りつくように、今まで握られていた手に触れた。そこに残るのは微かで、けれども確かな熱だった。だがその熱は緩やかに引いて行く。徐々に冷たさを取り戻す自分の手を軽くこすったのは、熱が去っていくのが恐ろしかったからかもしれない。

「すまん」

 静かな声に、はっと顔をあげると眉を顰め顔を強張らせた志波くんがいた。何が違うのかわからなかったけれども「違う」と言いたくて、そう叫ぼうと思ったというのにからからに乾いた喉は音を響かせなかった。苦しげな息だけを漏らしながら、彼の広い背中を見おくる。
「ちが、う」
 違うのだ。そうではない。そうではないのだ。

 立ち上がりかけた足から力が抜けて、すとんと糸が切れた人形が地に落ちるように椅子に座る。目の前の机に乱雑に広がる紙が忌々しく、そしてとてつもなく空しかった。



(090906)