ACROSS


「ここ空いてるかな?」
 少し陰った手元に気がついて上を向くより先に降ってきた声は、求めていた人物の声と違っていたどころか、できることならば接触したくない面倒な友人のものであった。そしてその友人の言葉が、語感は気さくで明るいというのにどこか傲慢な響きを持って聞こえたのは、気のせいではないだろう。実際にその男、赤城一雪は返事も待たずに待ち人が来る予定である向かい側の席に腰を降ろしたのだ。

「こんなところで一人なんて珍しいね。相変わらず孤独な男、みたいのに憧れてるの?」
 淋しいねえとおどけたように続けた赤城は、カレーライスを一口すくって口へと運ぶ。昼休み30分前の食堂は混雑しておらず、かといって静まりかえってもいない適度な空間だ。あまり人に話すことでもないので誰にも言ったことはないが、ほどよくざわついた食堂で恋人を待つ時間が意外と好きだ、というのに今日は何という厄日だろうか。
「うっさい。待ってんだよ」
 からかいの言葉につっけんどんな返事を返せば「そんなに自慢げに言わなくても知ってるよ」と実にいやな答えであしらわれ実に不愉快になった。もともと嫌味な人間であることは十分知っているが、こうまでされると水を引っ掛けてやりたくなるものだ。
「ベストカップルだったっけ? 見たよ、あの恥ずかしい写真。君の仏頂面、まじまじと拝ませてもらったけどさ、ああいうときは少しくらいにっこりしたら? ファンサービス、得意だろ?」
 大学内で発行されているフリーペーパーでベストカップルとやらに仕立て上げられてしまったことは、円満だった大学生活に黒い染みを落とした。それを重々承知した上でにやついた笑顔を浮かべながらピンポイントでそこを攻めるねじまがった性格をどうにかしろと言ってやりたいが、言ったところで聞き入れる奴ではないことは知っている。それどころか言い負かされて泣きたくなってしまうだろうから、こんな時は黙ってたほうが得策なのだ。
「お前こそ、氷上はどうしたんだよ」
 いつまでもからかわれているのも癪なので話題を変えようと、無難な質問を投げかけた瞬間だった。カレーライスが置かれたテーブルの上がビシッと固まる音を聴いたのは。ああ失敗したと思った時にはすでに遅し、にっこりと笑った瞳に確かな翳り。
「僕だって何も毎日毎日氷上といるわけじゃないんだよ。ベストカップルに選ばれちゃうほど始終一緒にいるお二人さんと違って」
 のったりといつもよりも微かに低くした声で紡ぎながら、赤城はスプーンでちらちらと食堂の片隅を指す。示された場所を見て、ああなるほどと言葉を落とせば視界の隅にちらつく嫌な笑顔が一層濃くなった。

 窓際の席で昼食をとる一群の中でもぴか一に目立つ色の髪を丁寧に撫でつけた氷上は、友人たちと談笑していた。おそらく専門的な話でもしているのだろう、生き生きとした顔にいち友人として素直に喜びを感じたが、恋人となるとそう余裕をかましてはいられないらしい。自分の席の向かいに視線を戻せば、女好きのする顔に退屈と不服を滲ませた男がいた。
「嫉妬とは情けないね、赤城くん」
 これ幸いと営業用の声と顔でからかってやったが反応は薄く、ただひとこと「まあね」と返したきり赤城はカレーライスを胃に詰め込む作業に没頭し始めた。
 結局、自分は何を求められているのだろうか。この男の精神はひねくれ過ぎていてさっぱり理解できないのだ。男同志と言うだけでも感動するほど物好きだと思うが、その中でもなんだってこんな男を選んでしまったのか酔狂にも高校時代から赤城と付き合って、しかもうまくやっているらしい氷上の様子をもう一度、振り向きざまに伺う。和やかな雰囲気の中で談笑する集団に憧憬の念を覚えつつ(何と言っても背中越しに伝わる食卓は辛気くさくてかなわないのだ)、ぼんやりとそこを見ていると食事を終えたらしい氷上がすっと天から糸で釣られているように美しく立ちあがった。そして次の瞬間、ふっとこちらに視線が投げられた。
 見過ぎていただろうかと反省しつつも挨拶でもしようと軽く手を上げ、そこで初めて自分が氷上の瞳に映っていないことを知った。氷上の怜悧さを表した切れ長の瞳は柔らかな弧を描き、そしてそのあまりの優柔さは明らかに自分の後ろ、カレーライスを黙々と処理しているはずの男に向けられている。
 なんとも言えない恥ずかしさと虚しさの入り混じった感情を抱いたもつかの間、とある一言を思い出し急いで振り向く。その先にあった、いけすかない男の表情を見て笑い声を出さなかったのはもはや奇跡だった。

「赤城くんもけっこうかわいいとこあると思うけどな。氷上くんを見てる時の顔とかね」

 脳裏によみがえるの恋人の言葉が真実であったことを、見たこともない赤城の素直な笑顔に知る。
(こんな顔すんのか)
 なんだ、なかなかこの男も年相応で自分と同じものではないかと思う。初めて覚える親近感にひたっていると、赤城はひらひらと手を振り始めた。思わず小さく笑い声を漏らしてしまったが、恋人との時間にひたっている赤城は微塵も反応しなかった。

「バカップル」
 お互い手を振って頬笑みあった(氷上に至っては露骨に赤面までしていた)恋人たちの甘い時間を終えた赤城に刺すような強さで言ってやると、すっかりカレーを食べ終え食欲を満たし、恋人との逢瀬で別の欲も満たしたらしい男はにっこりと調子のよさそうな笑顔を浮かべた。
「まあね」
 得意げな声が実に腹立たしく、賑わってきた食堂と反対に気持ちはぐったりと沈む。バカップルと呼ばれてもいい。ベストカップルだのなんだのと冷やかされても構わない。この現状を蹴散らし、いつまでたっても勝てそうもないこの性悪な男の相手をしてくれる己の救世主の到着を必死に願う。
 昼休みが始まるまで後五分、自分の今日の運の悪さを呪いながら仰ぎ見た天井は腹が立つほど白かった。



被害者:佐伯瑛(090904)