てにまかす


 文字を書くときにはサラサラという心地よい音がするのだということを知ったのは最近だった。よくよく思い出してみれば授業中にはあちこちから聞こえていたような気もするのだが、それは眠気こそ誘ってもここまで心地よくはなかった。だが、どうもこの白い指が動くときにはまるで魔法にでもかかったかのように心が安らぐのだ。
 サラサラサラと、流れるような音が響くとほぼ同時、白いノートにはきっちりとした文字が現れる。以前、細かい字を追うのが苦手だと言ったら「君は老眼なのか?」と冗談半分に笑われたが、その後文字は少しだけ大きくなった。おかげで今ではきりっと引き締まった文字の細部までよく見えてたまらなく嬉しい、が、そんな気持ちを伝えたらきっと文字は虫眼鏡を使わなくては見えないほど小さくなってしまうだろうから黙っている。
 昔、文字というのは人柄を表わすものだと、確か小学生くらいのときに近所の老人(記憶が正しければ彼は習字を教えていた)に聞かされた。難しいことはさっぱりわからないが、几帳面にそろった美しい文字を見ているとなるほどどうしてそういうものなのだなと思ってしまう。それほどに氷上が書く文字は氷上らしいのだ。初めてその文字を間近で見たときにそう言ってみたのだが、返ってきたのは不思議そうに首を傾げ曖昧に笑った顔だった。褒めているのだと伝えれば頬をほんのりと染め、少しだけ華やかに笑ったので結果問題はなかったのだが、なぜかよくこの一件を覚えていて、だからこそよく思い出す。

 図書館は、いつだって静かすぎるほど静かで心地よい音にひたるには絶好の場所だ。けれども、サラサラと文字が浮かび出ては紙に黒い跡を残して行くその音が、恥ずかしいほど大きく響いてしまう気がして妙に焦ってしまう場所でもある。この音を、できることならば誰にも聞かせたくないと思っているのだが、だからと言って書くのをやめてくれとはもちろん言えない。理由まで正直に話した上で頼んでみても、ばかを見ることは経験済みなので大人しく言葉を飲むほうが利口だろう。
「志波君」
「なんだ」
「ああ起きていたか。なんだかぼんやりしていたようだから。君は図書室に来るとすぐに眠ってしまうだろ? もしかして、目を開けながら眠ることもできるようになってしまったのかと思ってね」
 まじめな瞳を少しだけいたずらっぽく染めた氷上はそう言って薄く笑った。ペンを持った手を止めたまま、笑う。すまんと短く謝れば「しっかりしたまえ」と優等生らしい言葉をひとつ、氷上はまた真剣にノートに向き合い始めた。ほどなく、サラサラという音が流れる。白い指が文字を刻んでゆく。
 初めてこの白い指を意識したのは、三回目のトレーニングメニューを作ってもらった時だ。やはり耳触りのいい音にうっとりしながら、音を奏でる指をふと見た。そして、その指が異様に細いことを知ったのだ。白くて細い、肉のついていない指が、ペンを啄ばむように摘んでいる様になぜだか心臓が高く跳ねた。自分の手とはずいぶん違うその手が不思議に思えて仕方がなかった。かといって女の手とも違うのは何となくわかっていた。だというのに触れたいと、そう思ってしまったのだ。この感情を過ちだというのならば、それはあの瞬間に始まったのだろう。しかしいくら触れたいと切望したところでそう簡単に触れるわけにはいかず、ただこうして眺めているのが精一杯だ。
 細やかに動く白い指を、そのまるで氷上の一部であってまったくそうではないような、まるで生き物のような白い指を、ただじっと見つめて音を聴く。ただそれだけ、たったそれだけ、けれどもそれはかけがえのない幸福でもあった。それにきっと、掴んだら壊れてしまうに違いない。陶器のように割れてはしまうに、違いないのだ。
「志波君?」
 水平線のようにどこまで広がりを持つ落ち着いた声が、訝しげに名を呼んだ。金色の瞳が透明なガラスの向こう側でくらりと揺れる。ああ、その手を、その手を取ってもいいだろうか。ぐっと拳を握る。握り込まれた手のひらに汗がたまった気がして急いでズボンでそれを拭った。氷上の手は止まっている。だというのに、止んだはずの流れる川のような音が聞こえるのは、音が耳にこびりついてしまったせいだろう。手は、音を奏でる白い手は、机の上に静かに乗せられている。本物だろうか。この音のように幻ではあるまいか。なにせこんなにも美しいのだ。
 ゆっくりと拳をほぐす。ぎこちなく動き始める指はかたい。触れてもいいだろうか。触れてもいいのだろうか。この無骨な指で触れても。

 志波は、静かに机を彩る白に向かって、ゆっくりと手を伸ばした。



手フェチ(090719)