涼しさを招く手


 適度な温度に保たれた快適な部屋、その中でも一等に心地の良いソファにもたれた氷上は、露わになった額を三つ指で押さえ眼を瞑っていた。特別に不健康でも病弱な性質でもないが気だるくてたまらないのは、連日の猛暑日のせいだった。ろくに食事もとれなければ眠りも浅い、そんな日が続いているのだ。
 もともとさっぱりとしたものしか受け付けない口であることは自覚していたが、暑くなればなるほどそれは露骨になり、悪化すれば固形物を喉に通すのにも難儀するのだから参ってしまう。今はまだ何とかさっぱりしたものならば口にできるが、今年の夏を生きて乗り切れるのだろうかと悩むほどに、氷上は弱り切っていた。だが、その衰弱した体をさらに痛めつけるように氷上は自分自身を責める。実のところをいえば、本人以外はこの体質をさほど気にしてはいない。特に彼の母親などは、バテる息子に夏を感じるらしく「たるちゃんの夏バテはすっかり家の風物詩ね」などと言ってのけるくらいなのだ。けれども氷上にとっては夏バテなど、そしてそれが風物詩になっていることなど屈辱以外の何物でもないのだ。のんびりとした母親の発言は氷上の自尊心を傷つけるには十分過ぎたのである。
(情けない)
 かちゃかちゃと陶器が触れあう高い音が台所から響く。この家の主が自ら昼食を作ってくれている音に氷上は大きく息を吐いた。昼食の内容を思うと、まるで鉛を飲んでしまったかのように胃がずっしりと重くなる。予想を立てる必要もない決まりきったメニューに、今更文句を付けようというわけではないし、基盤になっている独自の栄養学を否定するつもりもない。しかし、完食できるかといえばそれはかなり厳しい。かといって無碍に断ることは許されない。たとえ食事を提供してくれる人間が許してくれたとしても、氷上は己を許さなかった。

「格」
 スリッパの音も立てずにキッチンから出てきた氷室に呼ばれ、氷上はゆっくりと瞼を持てあげた。トレーの上にいつもと変わらぬライ麦パンを確認すると、ぐっと胃から酸味のある液体が込みあがってくるかのようだった。部屋の温度は暑くなく、かといって寒すぎもせず快適に保たれている。水分だって適度に摂取していた。けれどもどうにもダメなのだ。倦怠感をまとった体では。
「席に着きなさい」
 未だにソファに身を沈めている氷上に氷室が促すと、静かなというよりも元気のない声でこぼすように短い返事をし、氷上は食卓へ向かった。食卓の上には落ちついたアイボリーのランチョンマットが敷かれ、その上にはいつだって変わらず温度のない食事が置かれているのだが、今日は違った。向かい合う二つの食事の内容が異なっているのだ。
「に、にいさん」
「なんだ」
「あの、これは……」
 用意された食事は、予想から大きくはずれていた。見ているだけで涼しげなガラスの器に泳ぐ素麺に、氷上は眼鏡の奥の瞳を大きくする。
「座りなさい」
「あ、はい」
 操り人形のように力なく素直に氷上の腰は椅子に落ちついた。氷室は戸惑う従弟の姿にまるで気がついていないかのように平然としている。その目の前にはライ麦パンとチーズをはじめとしたいつものメニューが置かれていた。
「あの、兄さん」
「それならば食べられるだろう」
 未だに状況が飲み込めない、否、飲み込んでなお理解できていない氷上がぎこちない声を出すと、氷室はそれ以上の言葉を許さぬかのようにぴしゃりと言葉を返した。
「食べなさい」
 有無を言わさぬ氷室の声に、氷上はおずおずと箸を取り、食前の挨拶を落として氷水の中にたゆたう素麺を箸で掬う。氷室の手製なのか、出汁の味のしっかりとしためんつゆに軽くくぐらせ、口へと運ぶ。冷たい潤いが唇を濡らすと、淀んだ体内にすうっと新鮮な空気が通った。
「おいしい……」
「そうか」
 素っ気ない言葉の中に微かな照れを読みとることができるようになったのは最近のことだ。けれどもやはり手を煩わせてしまったことに対する申し訳なさは拭えない。
「すみません」
 素麺で喉を潤した氷上の声が唇の端から零れる。か細いその音は機能的すぎる部屋の中に消え行ったが、氷室はパンを口に運ぶ手を止め、消滅しかけた音を引き戻す。
「格」
 引き寄せる力強さを持った声に、氷上は視線だけで返した。休日の、少しだけラフな髪形のせいでいつもより多い前髪から覗く鋭い眼光に、自らの眼の光を合わせる。吸い込まれそうだと思った。森のような緑の瞳は穏やかに見えて、その実ひどく獰猛なのだ。
「私が好きでやったことだ。お前が謝ることではない」
「でも、僕がふがいないせいで兄さんに迷惑を」
「迷惑などと思ってはいない。くだらないことを言ってないでさっさと食べなさい。麺がのびる」
 逃れることを許さない視線に体を捕らえられた氷上は操られるように頷き、止まっていた箸を動かしはじめ、その様子に満足したのか氷室も再び食事に集中し始めた。
 穏やかな時間がゆったりと流れゆく中で、氷上はそろそろと素麺を口へと運ぶ。尊敬し敬愛している従兄の優しさを確かに感じながら。

 マグカップを二つトレーに乗せキッチンからリビングへ氷室が戻ると、氷上は食卓に肘をつき何やら神妙な顔をしていた。また何かどうしようもない思い込みで自身を責めているのだろうとは簡単に予想がついた。いつもならば食後のコーヒーを淹れる仕事は氷上のものだ。それを「座っていなさい」の一言で断った。繊細すぎる上に思い込みの激しい従弟が落ち込まぬはずはない、それはわかっていながらも、氷室は何も言わずマグカップを氷上の前に置いた。
 ほんのりと湯気の立つマグカップからは独特の芳香は香らず、代わりにどこか甘くやわらかな匂いが氷上を驚かせた。
「これは」
「ホットミルクだ。少々はちみつが入っている。それを飲んだら少し休みなさい」
 食後に二人でコーヒーを飲みながら氷室の蘊蓄に耳を傾ける時間を何よりも大切にしている氷上にとって、それは淋しい申し出だった。とたんに捨てられた子犬のように表情を暗くする。氷室はそんな従兄のわかりやすい態度に、呆れたように、だがそれ以上のあたたかな感情をこめて息を吐いた。生まれたときから知っている従弟は今年で高校二年にもなるのが、ずっと変わらずに可愛らしいものだった。「兄さん」と溌剌とした声に呼ばれれば、何をかなぐり捨てても答えてしまいたくなるほどに。
「暑い夜続きで碌に眠れていないのだろう」
 ホットミルクを片手に視線をさまよわしていた氷上は、氷室の言葉に表情を硬くすると震えた目で氷室を見た。図星を突かれて強張った顔には困惑がありありと浮かんでいる。わかりやすい表情の変化に満足しつつ「寝室を使いなさい」と氷室の平坦な声が言うと、氷上は一度だけ口を開いて何かを言いかけたがすぐに言葉を牛乳とともに飲み込んだ。

 半開きの扉を音もなく開けると、開け放たれた窓からさわやかな風が音もなく廊下へと抜けて行った。氷室はそんな薄暗い寝室の中心で存在感を示すベッドへと、注意深く一歩ずつ近づいて行く。自分の部屋、それも極めてプライベートな部屋であるというのにこんなにも注意を払うのは、上質なベッドマットの上、ラフな格好で寝息を立てている従弟を刺激したくないからだ。
 ベッドサイドの椅子に腰をおろし、氷室は安らかに眠る氷上を見た。寝顔というものは総じて子供っぽく見えるものだが、平時と異なり前髪で額を隠す氷上は特別あどけなく見える。クーラーを使うと喉を痛め、扇風機の不自然な風も苦手とする従弟は連日の熱帯夜をどう過ごしていたのだろうか。冷却枕に頭を委ねながらも白い肌に汗をかき苦しんでいたのかと思うと、氷室は従弟に同情すると同時に欲情した。何度も何度も触れこそすれ奪ってはいない熱を思い出すと体は自然と沸き立つ。手ひどくしたいわけではないが、奪いたいと思う気持ちもある。泣かれて、ののしられても奪いたいと思う。けれどもこうも無防備に寝姿を晒されては単純な情欲は影を潜めるしかなく、後から後から溢れる愛おしさに飲み込まれ消えていった。
 欲をおさめてから改めて氷上を眺めると、やはりひどく子どもらしく見え、氷室は口の端に笑みをのせながら寝乱れたタオルケットを正した。すると薄手の生地であっても暑苦しいのか、氷上の白い手は腹のあたりを必死に探り始める。しかしそれを許す氷室ではない。すぐに除けられかけたタオルケットを同じ位置に戻した。それから、もどかしそうによじられるベッドの上の体に微笑みかけながらサイドボードから団扇をとり、ゆったりとした風を氷上へとおくる。自然に吹くものに近いやわらかな風が、氷上の髪を撫でるとふわりふわりとやわらかな前髪が靡き、それはまるで早春の若草のように美しかった。
「まったく」
 さわやかな風に頬を撫でられ、不快感が消えたのか徐々に寝息を穏やかなものへと変化させる従弟にぽつりと呟きを落とす。
「いつまでも手が掛かるものだな」
 言葉とは裏腹に柔らかな笑みをたたえ、先ほどまで風になびいていた前髪を撫でる。手の中でふわりと揺れる髪を指で梳くと、安らぎきっていた氷上の表情は一段と静まった。



夏の土曜日の午後(090717)