素顔を隠して


 待ち合わせの店、お決まりとなった一番奥の席に氷上を見つけた赤城は、いつもならば後から来る自分を探してキョロキョロしている氷上の顔が俯いていること、それからその顔に浮かぶ表情が非常に真剣であることに歩調を速めた。
「や!」
 短く声をかけると氷上ははじかれたように顔を上げ、少しばつが悪そうに眉を下げた。人を寄せ付けない原因にもなっている鋭い眼が自信なさ気に細められている様は妙にかわいらしい。まるで怒られるのを待つ子どものような表情に、赤城は無意識のうちに笑みを描いた。
 手に持ったトレーを静かに机に置き、腰を下ろしながらさり気なく氷上の手の中に握られたものに視線を投げる。白い手が、細く長い指が、柔らかに捕縛しているのは街中でやる気のない声とともに突き出されるポケットティッシュだ。ビラをはじめ路上で配られているものをあまり受け取らない氷上にしては珍しいとは思ったが、先ほどの熱中ぶりを見れば、ティッシュの背に入れられた広告がよほど興味をひいたのだろうということは考えずともわかっていた。
「めずらしいね氷上がそういうの受け取るなんて」
 隠すように握られかけたティッシュに目を向けて赤城が問うと、氷上はウーロン茶を一口飲み、それから真剣なまなざしを隠した眼鏡をチャキっと押し上げる。
「前にも話したと思うけれど、コンタクトレンズの購入を考えていてね。たまたまそこで配ってたものだから」
 ああなるほど。そういえば高校時代にもそう言っていたことを思い出す。結局は眼鏡で事足りているし特に不便を感じないからという理由で見送られたはずだ。というよりもそう誘導したはずだというのに、また性懲りもなくと呆れはしたが、古傷が疼きだすのと同じようなものだろうと思えば責める気も薄らいだ。
「そういえばそんなこと言ってたね。で、どうするの?」
 今回は、という含みを持たせた声でたずねると、氷上はまたウーロン茶を一口飲んだ。白い喉が上下する。こくり、と音に耳をくすぐられた気がして赤城は一度耳をかいた。観察という言葉を使ってもおかしくないほどに、ひたすらに氷上を見つめる赤城は、氷上格という男の造形の美しさに心を酔わせていた。
 本人は全く気が付いていないどころか気にも留めていないようだが、氷上の容姿は実に端正だ。ことさら眼鏡を外してしまえば堅苦しい雰囲気も消え去り、代わりに育ちの良さの滲み出た愛らしさや無邪気さが顔を覗かせ、美貌はいっそう華やぐ。人を突き放す冷たさが影をひそめれば色の白さも手伝ってかどこか儚ささえ感じさせ、冷徹さを感じさせるガラスの光が消えてしまえば金色の瞳は光輝くばかりでただただ美しいのだからまったく悪い。以前、あれは高校最後の夏だっただろうか。目薬を入れるために氷上が眼鏡を外したときなど、同じ生徒会役員の女の子の黄色い声があちらこちらから響いていたものだ。本人は例によって例のごとく気が付いていないようだったが、赤城は気が気ではなかった。今更その時と同じ気持ちになりたいわけもなく、またそれ以上に自分だけが知る氷上格をさらけ出したくはなかった。
「不便してるの?」
「いや、そういうわけではないのだけれど……」
「まあそうだよね。かけたり外したりをするなら別だけど、氷上が眼鏡を外す時って数えるくらいしかないわけだし」
「そうだな。寝るときと風呂に入るときくらいだろうか」
「後は?」
 囁くように、それは聞きなれたにも関わらず非日常さしか感じさせない甘い囁きに似た声に、氷上の神経はかすかに弾かれ震えた。寸分も変わらぬ様子でそんな氷上を見ていた赤城は、すうっと氷上の、変わらずティッシュを握る白い手を捕えた。瞬間、氷上が腰を引くとソファがギュッと鳴る。
「もうひとつ、あるだろ?」
 赤城の挑むようにも見える眼は熱に浮かされ黒く濡れていた。氷上はその眼にぎくりと背骨を縮める。ゆっくりと指が滑ってゆく。氷上のうっすらとしか肉の乗っていない手に赤城の細く器用で小奇麗な指が滑る。時折ぴたりと止まると爪を立て、柔らかに肉を傷つける。それに氷上が息をのむ暇も歯を噛む間もなく、指は優しく皮膚を撫でた。指先にきゅっと力が込められると、柔らかに骨が押され、痛くも痒くもないのだがなぜか不思議な心地よさを覚える。ああまるで愛撫のようではないかと気がつけば余計に敏感になってしまうのか、氷上は身を震わせ赤面した。
「ね、氷上、わかった?」
「離して、くれ……変に思われるよ」
 氷上は赤城の質問には答えずに、必死に手を引いた。だが赤城は指先だけでその動きを封じ、更に愛撫を深めてゆく。すでに氷上の中に答えは出ていた。けれども口にするのは憚られたし、なにより今の状況に混乱していた。昼を過ぎた中途半端な時間とはいえ店内には他の客もいれば、もちろん店員もいるのだ。大学生の男が二人、机の上で手を握り合っているなんてあまりに露骨過ぎやしないだろうか。
「答えたら、離してあげるよ」
「っ!」
「氷上」
 甘い声は耳元に落とされたかのように重厚に響いた。どくりと大きく心臓が打ったその刹那、氷上は赤城の指に支配された手を震えさせた。
「寝るとき、だ」
「それさっきも言ったよ」
「そ、そうじゃなくて……君と、寝るとき」
 早口にそう落とした氷上は、絡みつく指からどうにかどうにか逃れようと必死だった。きょろきょろとあたりを見回しつつ、潜めた声で「人に見られる、から……離して、頼むから」とやはりせわしなく言葉を紡ぐ。困惑にころころと瞳は動き回り、いつも自信ありげに吊りあがった眉は気の毒なほど歪んだ線を描いた。しかし赤城は許さなかった。暴れまわりそうな手首を捕え、混乱に色づく氷上の瞳を捕える。 「僕と、セックスするとき、だろ?」
 絡め取った視線を離さぬまま赤城がはっきりと言う。滑舌のよい澄んだ声に氷上は思わず息をのみ、より一層、激しくあたりを見回した。人気のない店内のせいで、言葉がひどく大きく響いた気がしたのだ。なんだって赤城はこんな場所でこんなことを強要するのだろうと氷上はひたすら考えたが、その答えが出ないことも一方では知っていた。まったく、理解とは諦めを呼ぶものである。氷上の口は氷上が意識するより先に薄く開いてしまったのだ。
「き、きみと……する、とき」
 すべてを見透かすような、どこまでも覗きこむような赤城の視線から逃げるためにか、顔を伏せつつ紡がれた言葉に赤城はぱっと手を離し、氷上を解放した。本当ならばもっと直接的な言葉を吐かせるつもりであった赤城にとって、氷上の言葉は及第点にも届いていない。けれども、染められた頬に、潤んだ瞳に、そわそわと揺れる体と柔らかで美しい髪に、思わず強く欲情してしまったのである。
 氷上はようやく自由になった手を急いで引っ込め、机の下に隠す。耳をほんのり色づけながらも、周囲に眼を配り自分の発言が誰にも聞かれていないことを確認して息をついた。
「正解」
「なっ……ふざけるのも大概に」
「ふざけてなんかいないよ。わからない? 僕は眼鏡のない氷上を見ると、そんなことばかり考えてしまうんだって」
「な、なにを」
 平静を保とうという努力さえやっとのことで行っていた氷上は、赤城の緩やかな言葉に再び顔を赤く染め上げ、口をぱくぱくと動かした。まるで金魚のようなその動きを赤城はからかうように笑う。
「氷上」
 これ以上はいけない。氷上は甘くとろけるような赤城の声に思った。これ以上何かを言われたら、この場に膝をついて陥落してしまうと氷上は心底感じていた。誘惑はいつだって芳しい。ぎゅっと机の下で握った拳を開き、氷上は握りこんで皺くちゃになってしまったポケットティッシュの皺を丁寧に伸ばす。ビニールがカサカサと鳴るその音で、赤城の声をかき消してしまいたかったのである。
 もと通りとはいかないが、どうにかティッシュとしての体面は保たれるであろうほどには形の戻ったそれを、氷上の震える指は静かに机の上に置いた。そして羞恥に震える指先に赤城が笑うよりも先に、氷上は三本の指でティッシュを赤城へと押しやった。
「君のせいで不要になってしまった」
 か細い声は子どもじみた不機嫌さを持って呟かれ、赤城を喜ばせた。痛めつけられたティッシュに赤城の手が伸びると、ティッシュの上で震えていた指はさっと避けられる。
「じゃ、これは僕が責任をもって使うことにするよ」
 赤城は先ほどまで氷上の手の中で温められていたポケットティッシュを、柔らかな手つきですくい上げるとそのままジャケットのポケットへとしまいこんだ。



セクハラ(090712)