パーフェクトサークル
小さな丸に込められた想いなど知らない。
目覚まし時計のように耳につく音が短く鳴る。細かな文字がしき詰まった大量の紙の上で、携帯電話は存在を主張
するかのように鳴り続けていた。ばたばたと小さな珍しく慌てた様子で机に戻ってきた高田は、鳴り響く携帯を奪うよう
に取り、受信したメールを開いた。
送信者の欄を確認し、それが自分のボスであることを知ると高田の顔は誰にもわからぬように小さく歪んだ。仕事が嫌
いなわけではない、かといって特別に好きなわけでもないが、食うために働いているのだから好き嫌いは言ってられない
というのが本音である。しかし、時には仕事にうんざりすることもあり、今日はこのまま電話対応ですむかと思っていた
ところに面倒な仕事が割り込んでくるなんてことは極力避けたいのだった。だが、社長からのメールは仕事に関すること
以外にはありえない。電話でなかったということは緊急ではないのだろうが、仕事は仕事である。時計をちらりと見て、
高田は再び顔を歪めた。
小さな覚悟を決め、メールに目を移した高田は拍子抜けした。仕事といえば仕事なのだが、まったく他愛もない内容だ
ったのだ。明日までにという優しい期限付きの依頼は、仕事場のコーヒーを買ってきてくれという普段ならば受付の小百
合に言い渡される類の仕事だった。はた、と箇条書きのように感情を感じさせない淡々とした文章を目で追い、それと同じく
らい無感情にカチカチと画面をスクロールしていた高田の指が止まった。メールを最後まで読み終えたのだから止まって
当然なのだが、今高田の動きを制したのはひとつの記号だった。最後の文章につけられた句点がひとつ多い、その丸に
高田は反応したのだった。
+ + +
「え?」
初めて二人の間で記号が使われたときに高田が発した声は、動揺と恐怖に彩られた短いものだった。丑島はそんな高田
を気にも留めずに、ずかずかと部屋に入り、玄関先に立ちすくんでいる高田の背に、いつもの調子で「なにしてんの?」と
投げかけた。
「しゃ、社長?」
「……どうしちゃったのお前」
「いや社長こそ、なんで、うちに」
「今夜行くっつったじゃん」
メール見なかったの? とやや不機嫌そうに携帯をコツコツ叩く丑島に、高田は慌ててポケットから取り出した携帯を
開いたが、事務連絡の他にメールは受信していない。ましてや今夜いいよねなどという色っぽいメールは、愛人1号以外から
は入っていなかった。
どうやら痺れを切らしたらしい丑島が無言ですっと伸ばすので、その手のひらに高田は狼狽しながら携帯を乗せた。
中を見られることにうろたえているのではなく、まったく読みきれない現状にそわついているのだった。
「あんじゃねぇか」
ひどく投げやりに呟かれた言葉に高田の肩は震える。殴られてからセックスをするには体力が足りないことは、誰より
も高田自身が知っているのだ。
「ほら、これ」
ずいっと見せられた画面には、今日の報告に対するそっけない返事の一文が映し出されていた。ますますわけがわから
ないと眉の間に皴を寄せる高田に、丑島の眉間にも皺がよる。
「これ、」
「言って、なかったっけ?」
高田の言葉を遮るように発せられた丑島の言葉は、珍しいことに自信なさげに途切れていた。高田は稀有なこともある
と感心しつつも、ぶんぶんと頭を振った。
「ここ」
すっと太い指先が画面の一点を指した。そこには、本来あるべき句点のほかにひとつ余分がついていた。ただの間違い
だろうと特に気にしていなかったそれに意味があったことを理解した高田は、暗号の意味を知るべく丑島の言葉を待つ。
「まるがふたつついてたら、行くって意味って言わなかった?」
「言われてませんよ……」
いくら無茶な――と高田が時に感じている言動が多い丑島でも、伝えられてないことを読みきれとは言わないようで、
あー、と低い声を漏らしてから柄にもなく短い謝罪を高田に投げた。
+ + +
余分な句点は夜の誘いだ。都合がつかない時は返信の最後の句点を通例どおり、問題のないときは誘いと同じく句点
を余分につけたメールを返信すればいいことになっていた。とはいっても、丑島は仕事上高田の予定をほぼ把握している
ので、丑島の目の届かないところで勝が高田を誘わない限り、ほぼ不自然な句点をつけたメールが返信されるのだった。
高田は、半分作業的に返信メールに句点を2つ書いた。以前は、自分の体調も考慮して迷っていたこともあったが、結局
断りきることなどできないことに気づいたこともあり、今では迷わずにメールを返すようになった。
夜の誘いがイコールセックスでないと知ったことも、迷いを消す要因だった。高田はセックスが好きでも嫌いでも
ない。ただ、丑島のことは好きなのだと自覚していた。愛しているのかどうかは、そもそも愛って何? と節操なく勝にも
尋ねてしまうほどに理解していなかったが、悔しいほどに丑島という男に惹かれていることだけは自覚していた。
だが、気の乗らない性行為で体力を消耗することは嫌で仕方がなかったのだ。しかしある日、回りくどいメールを経て
やってきた丑島は、高田の頭を一度ぽんと叩いたきり無言でベッドに伏した。高田は思わず「しないんですか?」と
尋ね、それに対する丑島の返答はくぐもった肯定の言葉だった。その日から、高田は迷わなくなった。恋人同士ではない
のだから、拒むことはできないだろうと思っていたが、恋人同士でないからこそ拒んでもいいのではないかとも思い始め
たのだった。
(まあ、結局絆されてるんだけどな)
突っぱねたことなど一度もない自分を嘲笑いながら、高田は携帯をポケットに突っ込む。今日だって本当ならば何もせずに
眠りたいと思っていた。丑島が求めてくるかこないかは、やって来るまでわからないのだから、睡眠のために拒否するこ
とだってできた。それはそれは極めて簡単な操作で。
だが、高田は拒まなかった。つまるところ惚れたほうが負け、年下に見えぬ年下の男の静かな雰囲気に高田はすっかり当
てられているのだ。
仕舞ったばかりの携帯を取り出して、高田はもう一度メールを見る。確かについている余分な句点がたまらなく愛し
かった。言葉を知らない男の、精一杯の意思はいつだって高田を捕らえて離さなかった。
どんな長い愛の言葉よりも、この小さな丸があればそれで満足なだとはまったく我ながら情けないしあほらしいとしみ
じみ感じ入りながら、高田は音を立てて携帯を閉じた。
ラブレター企画―言葉のない―(080603)
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