波兎
カタログから抜け出してきたように無機質な部屋には、特徴的な苦味のある匂いにが漂っていた。
その匂いに眼鏡の奥の丑島の瞳がころりと動く。 ビールが飲みたいと言っていた人間が、なぜコーヒーを淹れたのか、丑島には到底理解できなかった。そして
その答えを握っている人物は、声をかけても起きる様子も見せず、すやすやと眠っている。 指先に僅かばかりの力を入れて、高田の柔らかな首の肉を押す。不気味に鳴る脈に、自分の、おそらく正しく 鳴っているであろう鼓動を丑島は注ぎ込んでみたかった。いつもうさぎにマッサージをしているときのように、自分を 注ぎ込んでやる。生きようとしているのか、死に行こうとしているのか、わからない高田の音を打ち消すように、丑島 は自分の音を高田に与え続けた。 「ん」 白に染まりあがった味気のない部屋の空気が、ひとつの音に破裂した。高田の口から漏れた、言葉になっていない、 ただの音声に、丑島は大きな絶望を背中に感じた。そうか、この男は人間だったのかと改めて思った丑島は、あまりの恐怖に 身が砕けてしまいそうだった。先ほどまで可愛らしい草食動物だと撫で回し、自分の鼓動を注ぎ込んでいた物体は、 人間だった。この事実は丑島にとって大きな恐怖だったのだ。ここにいてはいけないと脳が鳴らす警鐘に、丑島は立ち上がり、整頓されすぎている、動きのない台所の中で一人暖かな 存在であるコーヒーを、一口飲んだ。うまいのか不味いのかはよくわからなかったが、いつも会社で飲んでいるコーヒー とは違うことだけはわかった。高田が何のために淹れたのか、その理由を相変わらず丑島は知らなかったが、その一つは 自分に飲ませるためだったのだろうと丑島はしみじみ感じていた。 コーヒーを流し込んだ丑島は、先ほど買ったビールのレシートの裏にマジックで伝言を書き付け、テーブルに置いた。 それから、不自然な体勢で眠り続ける高田をベッドに引き上げる。高田の口から小さな声が漏れたのだが、それを丑島 は聴かなかった。 暗い玄関で、乱暴に足を靴に突っ込みつつ、丑島はドアを押し開けた。一刻も早く逃げるべきだと告げる脳の命令に 丑島は焦っていた。とにかく早く家へ帰って、そうして本物のうさぎにあわなくてはいけない気がしていた。そうでなければ 惑わされてしまうだろう。その前に、惑わされるその前に、丑島はうさぎに会おうと決意した。 二周年記念「鼓動」丑高(070427) |