たどろたどろ

 月も、星も、見えない。
 見上げた空にご愁傷様を呟いて、高田は腕に力を込め直す。背に負っている大きな子どもは異常に酒臭く、乳臭かった。
(また今日もかぁ)
 泥酔したマサルを少し揺らしつけながら、高田はうんざりと息を吐いた。確かに社長からマサルの面倒を頼まれた のは自分だが、こうも毎日私生活を犯されてはたまったものではない。それだけ公私がないのがやくざな職業だと 言われてしまえば反論する言葉もない。そんな虚しさに駆られながら、マサルの吐瀉物から朝の生理現象までの世話をする 自分を、高田は少しだけ悲しんだ。

 大きな寝息と、ひとつ諦めを孕んだ笑みを落としつつ、緩やかな坂を下る高田の背をマサルの鼓動が押す。 密着したマサルの心音は、痛いほどに高田の背を刺激し続けた。子どもはおんぶされて、母親の心音を聞いて、 リラックスするのだといっていたテレビ番組を思い出して笑う高田には、それが嘘か真かを見破る術はない。 だが、そんな無意味な真偽の判断は高田にとって不必要だった。ただ高田は、自分の背にくっついている少年にも そんなときがあったことを、それはもう大昔のことで、そしてほんの一瞬のことだったとしても、マサルが母親の鼓動 を知っていることを、祈った。自分にそんな体験があるかは忘れたけれども、マサルは、マサルにだけは、 そんな過去があればいいと、それだけを高田は思う。それほどに高田が背負っている男は無邪気だった。

 もしかしたら今、マサルは自分の心音を聞いているのかと思うと、高田は無性に照れくさくなって、 唇を窄めるようにして一人、笑った。マサルより僅かに遅く打つ高田の心音は、マサルのそれとリズムを奏で、明るい夜に、 うたうように響く。そんな二つの鼓動に、高田は誰にも伝わらぬほど僅かにはしゃいだ。なぜかはわからなかったが、 ただ嬉しく思う自分の感情に迷いつつ、高田は自分の背中で響きあう鼓動を感じていた。
 マサルの母親になりたいと望んでいるわけではない。そんなことは物理的に無理でもあるし、心理的にも勘弁して欲しい ことだ。けれども、自分の鼓動がマサルに伝わっていることを、高田は切望する。年下を可愛がるタイプではないこと を自覚している高田にとって、そんな自分の感情は狼狽の種でしかなかったが、それでも打ち合う鼓動に足を弾ませ、 マサルを背負いなおした。

「ひッきしッ!!」

 背中からの、突然の衝撃に、高田の体が少しだけ仰け反る。くしゃみをした張本人であるマサルは、変わらず高田の 背に張り付いている。風邪引くなよ、と高田は口の中に溜めるような調子で呟き、これではまるで母親ではないかと 内心で自身を笑いとばした。
 歩を早め、今日はベッドを独占させてやろうと考えながら、月も星もない明るい道を歩いていく高田の影は、 明るい闇の中に、揺れた。


二周年記念「鼓動」マサ高(070424)